吉田駅の設置

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明治三十年代において、現長野市域の鉄道運送のうえで大きな変化をもたらす原因になったものに、信越線吉田駅の設置と篠ノ井線の開通がある。

 明治三十一年(一八九八)九月一日に吉田駅が設置されるについては、この地に停車場を新設することは旅客・物資の輸送上好都合であるとして、明治二十八年近郊の三〇ヵ町村長が相談の結果、地元代議士の力を借りて逓信(ていしん)省鉄道作業局長官に請願した。この請願運動に相呼応(こおう)して、小布施(おぶせ)回りで豊野駅を原料・製品の継送の基地としていた須坂町の製糸業者は、運送面で至近距離となる吉田駅の招致運動を起こした。

 また、吉田村の一般の村民が停車場の開設にどのような意見をもっていたかを示す事例として、長野市吉田伊藤仁一所蔵の「作文清書」中の、「吉田停車場設置セラレタル後吉田町ニ影響スル状況如何」と題する宮沢良助の手記は大要つぎのようである。

 前年信越線が竣工して停車場を設置しようとしたときに吉田地域の人々は皆この地に新設すべく大いに力を尽くしたが遂に長野と豊野に設置された。実に当地人民の失望落胆は一方ならないものがあった。しかるに今回、また、本村の有志家が一致団結して大変熱心に停車場設置の議をその筋に請願しほぼ許容されようとしているかに聞いている。そうしたならば当地に大きな便益を与えることになる。その第一は交通運搬のみちがひらけることによって商業が飛躍的に発展するであろう。これまで長野及び豊野停車場で積みおろしをした繭生糸米穀肥料等から呉服反物その他雑貨品に至るまで汽車で運搬する物品のすべては直接、送着できるので商業の発達を助けるのである。それに伴って物資の運搬に従事する諸会社から旅宿や飲食店に至るまでますます増加し今までの田園に大廈高楼(たいかこうろう)が立ちならび一大市街地と化すであろう。

 明治二十九年二月十日

 こうして明治三十年九月十日に吉田停車場の設置は認可、当時の吉田村と三輪村中越地籍にまたがった地点(旧三輪村大字中越字北沖五-イ)が選定され、三十一年五月より着工、待合所・貨物積卸所・土蔵・官舎などの建設をおこない、九月の開場にそなえた。それにともない、停車場付近に運送店・茶店・旅店など一三軒の新築も進められた。吉田停車場の開設の前後に創業をみた駅前の主な会社・銀行は表44(『吉田のあゆみ』)のようであった。


表44 吉田停車場前の主な会社・銀行

 国鉄吉田停車場の新設は、地域に大きな影響と思惑(おもわく)をあたえたのであるが、その一つは貨物の発着の状況である。篠ノ井線の開通後の篠ノ井駅についで、吉田駅の貨物発送量は明治三十五年と比べて四十四年度は格段に増加した。また、到着量は三・二倍で、近接の他の駅と比べて群を抜いている。品目別の貨物発送量においては表45のように近接の諸駅に比べて繭の量が断然多いのが目立つ。そして肥料の発送量が長野駅に伍(ご)して多いのも特色である。


表45 長野近辺国鉄駅品目別貨物発送数量 (明治38年度)(単位:トン)

 総じて吉田駅の開設により、吉田は善光寺平の経済・産業の要所となり、須坂へ運ぶ繭などはそれまで荷車・荷馬車をたよりに運送されていたものが、鉄道の利用により大量に早く各地から輸送されるようになった。

 鉄道の開通や産業の発展にともない、明治三十年代以降吉田駅前には会社や銀行が開設されたが、吉田村の最初の工場として「ふじや製糸」(伊藤惣兵衛経営)が北本町に創設され、最盛期の釜数はおよそ二百八十もあり工員は三〇〇人を超え、近くから通勤する工女たちでにぎわった。

 工場で使う繭の買い集めは、若槻・浅川・古里・朝陽の近村はもちろん、遠く牟礼・松代方面など郡外にまでおよんだといわれている。明治三十八年には古屋敷にカーバイド工場ができ、そのために労働者や商談で来村するものも多く、昼間人口は三〇〇〇人を超えたという。