明治二十六年(一八九三)、鉄道庁は中央本線につぐ第二期線の主要線区として、篠ノ井線を調査対象として、三月に篠ノ井線(麻績(おみ)・西条経由、松本・塩尻)、犀川線(長野・笹平・新町・潮・松本)、大町線(長野・笹平・小根山・大町・穂高・松本)、保福寺線、三才山(みさやま)線の五線をとりあげて比較調査を実施、同年六月にその報告書を提出した。
当時、鉄道招致にもっとも熱心だったのは麻績村を中心とする東筑摩郡北部であった。窪田畔夫(くろお)代議士らを督励した結果、二十七年五月召集の第六回帝国議会に法案として提出をみた。そしてこの線を鹿児島線とともに第一期線に昇格させ、そのルートについては犀川線・大町線に比較して工事費が安いという理由で、篠ノ井線ということに決定した。起点を篠ノ井とし、松本を経由して塩尻にいたる計画であった。
この線路の実測は、明治二十九年五月から始められた。工事は二十九年十月、篠ノ井から着工となったが、日清戦争後の不況の影響を受け、三十一年四月には中止された。これに対して、三十二年二月の第二二回長野県通常県会は「中央連絡鉄道篠ノ井線ノ連成ヲ促ス意見書」を決議し、内閣総理大臣に請願した。
政府は、三十二年第一三回帝国議会において予算額を増額して、総額七六七万七七五一円で工事を再開した。
これにより工事は前進し、つぎのように開通した。
明治三十三年十一月一日 篠ノ井・西条間
三十五年六月十五日 西条・松本間
三十五年十二月十五日 松本・塩尻間
篠ノ井線の工事では稲荷山(いなりやま)・明科(あかしな)間の地形が悪く、工事は難航した。とくに冠着(かむりき)トンネル、白坂トンネルが難工事で多くの犠牲者を出す結果となった。
篠ノ井線の開通によって、篠ノ井は一寒村(かんそん)から一躍して鉄道交通の要地となった。駅の設置により、運送業者や商店・旅館などが、旧篠ノ井と芝沢本町の二方面から駅前に進出してきた。また、駅と幹線道路の北国街道を結ぶ駅前道路も開かれた。そして篠ノ井線が開通したころからだんだんに商店も進出した。
国鉄篠ノ井線の開通により松本と長野間が汽車で連絡されるようになると、旅客・貨物とも国鉄に依存するようになり、犀川通船の事業は衰運(すいうん)に向かうことになった。篠ノ井線が開通する以前の犀川通船は、松本を起点として新町(信州新町)を経由し終点の三水(さみず)(信更町)までで、下りの行程は約六時間、最盛時には上り四艘(そう)または五艘といい、船数も三〇艘以上であった。上り荷は塩・肥料・石油・米などで、肥料は北海道産の海産肥料であった。下り荷は木曽の白木(桶用(おけよう)の檜(ひのき))、瀬戸の陶器、犀川沿岸の煙草(たばこ)その他であった。乗客は時間船と呼ばれた、一日一艘の通船を利用した。
この舟運は明治三十五年の篠ノ井線の開通によって廃止となり、以後は明科・新町間を月一~二回程度、肥料と米を積んで上るだけとなった。