道路の整備事業

716 ~ 720

「七道開削事業」を中心とした幹線道路の整備は、明治二十六年(一八九三)に完結をみたが、現長野市においては、信越線の開通により大町と長野を結ぶルートの利用価値が増大し、その要望にこたえるかたちで二十五年には高府(たかふ)街道が完成した。

 やがて、三十六年の土木規定の改定により、県費負担となるのは国道の二路線と仮定県道の三一路線であった。そのうち現長野市域に関係するのは、国道五号線(北佐久郡東長倉村の群馬県境から上水内郡信濃尻村の新潟県境にいたる……旧北国往還)と仮定県道の新町街道(更級郡塩崎から上水内郡水内村新町にいたる)、松代街道(更級郡青木島村から埴科郡松代町にいたる)、妻科街道(長野市大門町から西町・若松町・県町をへて石堂町にいたる)、前橋街道(上水内郡若槻村から下高井郡中野町をへて同郡平穏村にいたる)、大町街道(長野市から北安曇郡大町にいたる)の六街道であった。これらの国道および仮定県道の工費は、土木条規の規定により、県費をもってあてられた。

 明治三十年代において、現長野市域に関係する主要街道の改修工事として、大規模なものには新町街道があった。新町街道は更級郡川柳村(長野市篠ノ井)と同郡更府村久米路橋を結ぶ線で、犀川沿線の各村々と長野盆地を連結する重要路線である。この線の改修は、三十三年から三十五年の約三年間かかり、工事費は二万六七七六円を要した。この街道は総延長約十四キロメートル、道幅三・三メートルで屈曲と起伏の多い山道であった。


表46 道路の改修と新設 (明治30年代)

 県道新町街道の改修工事にともない、更級郡更府村橋場から犀川をへだてた上水内郡水内村にかかる久米路橋の位置の変更願いが、地元の村々から県知事あてに出された。その理由は、久米路橋の位置を上流に移動させて、峻険(しゅんけん)な岩山を避けて車馬通行の便をはかることであった。しかし、これは聞き届けられず、改修路線の位置はほとんど従前のままであった。道路の幅員は地質のいかんを問わず、すべて三・三メートルと決められ、県道として面目を一新した。そして、上水内郡・更級郡の西山地域と長野盆地との人的・物的な交流を深める役割をになった。

 また、大町街道の改修工事も三十五年から三十八年にかけておこなわれ、悪路であった小田切村の塩生(しょうぶ)・滝沢西地区やまわり道で不便な共和村の小松原地区、安茂里村小市地区などが重点的に修繕された。須坂街道も吉田村から朝陽村にかけての部分が改修延長され、道幅も四・五メートルに拡幅され、車馬の通行が便利になった。また、千曲川右岸の谷街道については、埴科郡松代町・寺尾村地区の道路が大幅に改修された。その他、国道五号線の改修工事も進められ、長野市石堂町の国道西側に公衆便所が初めてつくられた。


写真27 大町街道の裾花川相生橋 手前に架け替え前の橋が残っている (山田明雄所蔵)

 長野市街地の道路網の整備は、人口増加と市街地の発展に即応して進められた。この期には、三路線が新設されて、九路線が改修された。比較的規模の大きい新設路線は、錦町通りであった。これは国道石堂町通りから発して千歳町通りに交わり七瀬に抜けるもので、市街地が信越線を越えて東部に発展することに対応したものである。また、新設の問御所・千歳町通りも、長野駅の設置にともなう千歳町通りの発展に即応したものであろう。西長野・茂菅通りの大規模な改修工事は、ますます交流が深まってきた西山部地域とのかかわりに配慮したものと思われる。


表47 長野市内道路の新設および改修状況

 南県町の人口は、三十一年度から三十八年度の七年間に二倍以上に増加した。急激に発展する南県町と新田町・石堂町との連絡を円滑にするために、西河原通り・石堂町・南県町通りの改修がおこなわれた。

 明治三十年代における市街地道路は、長野市街が善光寺門前町から県都長野市に大きく発展する過程に対応して順次整備され、善光寺と県庁につながる縦断的な国道五号線・県庁通り・千歳町通りなどを東西に連結する横断道路の整備に重点が置かれた。