中小河川の砂防工事

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千曲川水系の中小河川のなかで、砂防上被害の大きかったのは浅川であった。浅川流域は犀川の支流牛伏(うしぶせ)川(松本市)とともに、県の明治三十年代の砂防工事の重点地域であった(表49)。浅川はその源を飯綱山に発し、現長野市域の北部山間部を東南に流れくだったのち、平坦(へいたん)部で北東に流れを変え、途中支川を合流しつつ千曲川左岸に流入する、流域面積約六十八平方キロメートル・延長約二十キロメートルの河川である。流域は東西約十二キロメートル・南北約六キロメートルあり、その大半が現長野市域で、一部現豊野町・現小布施町をふくんでいる。流域内には旧北国街道・信越本線が通り、交通幹線路として重要な地域であり、また浅川から分流する太郎・二郎・三郎等の用水堰(ようすいせぎ)は、この流域の農業を支えていた。


表49 砂防修繕費各川別累年比較表 単位:円

 浅川扇状地の末端部に当たる古里地区付近から千曲川への合流点までは、千曲川の自然堤防にさえぎられて後背湿地(こうはいしっち)をそれて平行して流れ、中流から下流にかけてたびたび氾濫(はんらん)し、土砂の堆積(たいせき)による河床の上昇で天井(てんじょう)川が形成され、万一の破堤に対して住民の不安は絶えなかった。

 浅川流域の砂防工事は、明治三十年(一八九七)法律第二九号の砂防法にもとづき、三十一年度より実施された。浅川の砂防工事は、牛伏川とともに県下においてもっとも緊急性のあるものとされた。三十一年度の浅川砂防費の決算額は二四五八円で、以後国庫補助を背景に同川流域の砂防工事が進められた。

 浅川の流域は、裾花凝灰岩(ぎょうかいがん)層と呼ばれる岩盤からできており、地質的にもろく崩れやすい地域で、三十二年内務省告示第五八号により砂防施設の必要な場所に指定された。指定一一ヵ所のうち、現長野市域のものが九ヵ所で、浅川村内は七ヵ所であった(表50)。


表50 明治32年内務省指定長野県砂防工事場所

 砂防工事の実施地域の浅川の上流部は、飯綱高原から長野盆地への急傾斜地に深い浸食谷(しんしょくだに)を形成し、地盤地質の軟弱さから土砂の崩壊を招いていた。工事対象地域は浅川本流の左岸の真光寺・三ッ出・池平と、右岸の薬師・畑山・象ヶ峰であり、支流の南浅川の右岸の一ノ瀬・地蔵窪(上松)であった。工事の内容は、護岸の石積みと水流を調節するための堰づくりが主であり、崩落防止のための苗木の植え付け作業もおこなわれた。とくに畑山地区は、苗木の植え付けが五〇〇メートルにわたって実施された。

 浅川の砂防工事がやま場を超えた明治三十年ごろからは、保科川の工事が始まった。工事場所は保科川の源流に近い、葡萄沢(ぶどうざわ)・村松・釜平・東谷等の地域を主にして実施されたが、上流の水源に近い工事は難航した。人家所在地から一二キロメートルも離れ、通勤も不可能な工事現場には、土木器・諸機械を保管し、仮宿泊もできるような掘っ立て小屋を建設して工事を進めた。