市制を施行した長野市の明治三十年代の戸口は、表51のようである。三十年(一八九七)に五五二三戸・二万九二八五人であったのが、三十五年には六六六三戸・三万四九三〇人と一一四〇戸・五六四五人増加しており、さらに四十年には七〇八七戸・三万八四二四人と四二四戸・三四九四人増加している。市制施行後の五年間の増加のいちじるしいことがわかる。その後の五年間にやや伸び悩みをみせたのは、三十七、八年の日露戦争の影響によるものと考えられる。しかし、この一〇年間を通じて、一年平均約一五六戸・九一四人という増加で、長野市の躍進のようすを戸口からも知ることができる。
長野市の人口の場合、明治三十三年を例にとると、この年の人口は三万二四〇二人である。このうち本籍人口は二万一四二五人で入寄留が一万三八九四人いる。合計すると二九一七人多くなってしまうが、この内訳の出寄留二八二七人・陸海軍兵士四八人・囚人三一人・在外国一一人を差し引くと、この年の人口となる。長野市への入寄留は、男は役人・商人・労働者が多く、女は芸妓(げいぎ)・娼妓(しょうぎ)や飲食店・宿屋などの従業員が多かったようである。三十六年には、長野市の諸営業のなかに、旅人宿一一四軒・下宿屋九二軒・木賃宿一〇軒・料理屋九六軒・飲食店一七〇軒・貸し座敷三六軒があった。
明治三十年代の長野市や隣町村の人びとの生活の、一年間の動きを新聞記事などでみると、以下のようである。
一月元旦、人びとは善光寺に詣(もう)で、さらに湯福神社・武井神社・妻科神社・秋葉神社などに詣でる。なかには城山記念公園で初日の出を拝んだり、帰途は昼夜興行の千歳座や三幸座へ繰りこんで、芝居や活動写真を見るものもいた。元日から三日にかけて、諸官庁・各学校では遥拝祝賀式があり、城山館では県知事・市長も参加しての名刺交換会がおこなわれた。年始まわりする人びとの多いのも、このころである。
各商店では、二日午前に初荷、午後からは初売りをにぎやかにおこなうので、近隣の人びとも大勢集まってくる。商店はそれぞれの工夫をこらして店先を飾り、アーチをつくり、幟(のぼり)を立て、福袋や福引きを用意し、景品つき祝い売りをした。四日ごろには、消防組の出初式がおこなわれ、はしご乗りも披露された。
六日夜には、善光寺びんずるの引き回しがおこなわれる。男性は毛布をかぶったり二重外套(がいとう)に身をつつみ、襟巻(えりまき)や手ぬぐいほおかぶり、女性はコートやショールに襟巻・綿帽子などで寒気を防いで集まる。びんずるを引きまわす若者たちに頼んで、びんずるのひざに子や孫を抱かせて、無事を祈る姿もあった。
こどもたちは雪が降れば、市中いたるところの坂道を利用して、そり滑りを楽しむ。人が歩くのに危険だと注意されても、なかなかやめるものではなかった。竹馬も盛んで、その高さを誇り合い、女の子は羽子板を楽しんだ。十五日は道祖神祭りで、こどもたちの手で集められた松飾りの、どんど焼きがおこなわれた。二月に入ると初午詣(はつうまもう)でがあり、十一日は紀元節を諸官庁・学校などで祝った。
鉄道の開通により、東京風のものがいち早く長野市にも入るようになり、服装などは流行を追う風潮も生まれてきた。移り変わりも以前より早くなり、商人は商品の仕入れにも細心の気を遣うようになり、掛け値なし正札づきの商売をする店が増えてきた。また、卸屋(おろしや)と小売店がはっきり分かれはじめたのも、このころからである。
経済活動が盛んになると、貧富の差が大きくなり、衣類など上等なものが売れるのに、値の安いものの売れゆきがかえって鈍(にぶ)くなったようである。明治三十四年の大工・鳶(とび)職人の並みの日当は四八銭で、内訳は一六銭がめし代、三二銭が作料であった。ところが、この日当を酒食やばくちに使ってしまうものも少なくなかった。日露戦争時の三十七、八年ごろは、女性の内職(三十九年には一三五〇人いた)で畳糸の一本のより賃三〇~四〇銭が二〇~二五銭に下落し、生活を圧迫したので、安い外国米が売れるようになった。
三月に入るとお彼岸を中心に、県内外から善光寺参詣者が鉄道を利用して、たくさんやってくるようになる。お彼岸は、長野市の商人のみならず、各地から入りこむ小商人・小興行者の稼ぎどきでもある。善光寺周辺には、射的・吹き矢やのぞきパノラマ、口上を述べての手品の種売り・居合い抜き・シャツなどの競(せ)り売りがならび、大蛇や足芸軽業の見せ物、辻浄瑠璃(つじじょうるり)も人を集める。また、花見だんご・三色餅(もち)・桜餅・うぐいす餅などを売る店、そば屋・甘酒屋・焼き芋屋・おもちゃ屋・古本屋・植木屋も店を開く。三幸座の昼芝居、千歳座の夜芝居もにぎわった。
四月にはひと月おくれのひな祭りがおこなわれる。市中にはひなを売る店、白酒・桜餅・草餅を売る店が増える。上旬には、味噌煮(みそに)をする家もある。好天の休日には会社の運動会や、このころから急速に普及してきた自転車の競走会が、師範学校の運動場で開かれた。中旬には安茂里のあんずの花見がおこなわれる。人びとは酒をひさごに、煮しめを重箱に入れ、あんずの花の下にくりだす。甘酒・おでん・花見だんご・木の芽でんがくの店も七、八軒ならぶ。城山館では、能楽が催されることもあった。
五月に入ると、家々では家族総出ですす払いを済ませ、清潔巡回を待つ。先月に味噌煮をした家は味噌仕入れをする。消防組の演習がこのころおこなわれる。野山にはわらびもぽつぽつ出始め、家庭の食卓にのぼる。
六月にはひと月おくれの、端午の節句がおこなわれる。初節句の家では、親戚(しんせき)などに柏餅(かしわもち)を配る。梅雨に入ると、長野市の道路は泥だらけとなり、排水が悪く凹凸が多いので、いたるところに水たまりができて、まるで川底のようで履物もすぐだめになると不評であった。
近隣の農家では、下旬から七月上旬にかけて、大麦・小麦の刈り取りが進められる。かつての綿畑・菜畑は、三十年代には桑畑に切りかえられるところが多くなった。また、長野市の人口増加にともない、近郊農村的色合いも深まり、野菜のなす・きゅうり・ささげ・さといも・にんじん・ごぼう・大根・さつまいも・白瓜(しろうり)・すいか、果物のりんご・桃・すもも・あんず・なしなどを栽培して、供給するようになってきた。
七月、八月の長野市の暑さは格別で、氷店が一〇〇軒ほど(三十六年八五戸、三十七年一一三戸)できていた。冷やしたビール(二五銭)・サイダー(八銭)もよく売れた。家の戸障子を開き、竹すだれやすのこ屏風(びょうぶ)で風を通し、冷ややっこを食べた。夜はうちわ片手に涼みに出れば、植木屋・金魚売りが店を開いていた。七月十三、十四日は、弥栄神社の祭礼(祇園祭)で、権堂の大獅子(じし)をはじめ、各町から趣向をこらした山車(だし)・踊り屋台・俄(にわ)か物が出され、近郷近在からの人出でにぎわった。
八月に入ると大門町派出所前から本堂にかけて、年に一度の花市が開かれる。さまざまな草花のほかに、野菜・果物もならべられ、ざる・桶(おけ)類・瀬戸物・灯籠(とうろう)・提灯(ちょうちん)・かんば・そうめんなどが売られた。夜は山門にはアーク灯がともされた。七日の七夕まつりには、硯(すずり)に里芋の葉の露を受けて墨をすり、五色の短冊に願いごとなどを書き、竹の枝に結びつけた。
九月の陰暦八月十五日には、すすきを飾り、だんごや枝豆を供え、観月をおこなう。なかには、旭山の阿弥陀(あみだ)堂や城山へでかけて、清光を眺め句作に興ずる人たちもいた。秋の彼岸には、善光寺詣での人出は、普通日の三倍ほどにもなった。
梅雨時から九月にかけては、伝染病や食中毒の患者がでるため、市内の汚溝と井戸水の汚れがしばしば問題とされた。坂地に人家の多い街だけに、その勾配(こうばい)を利用すれば下水のとりかたは便利であるはずなのに、衛生に無頓着(むとんじゃく)で設計が悪いので、下水が滞留して不潔になっている。ときには、井戸水にその下水がしみこむので、井戸水も汚れて不潔になっている、というのである。井戸のないところでは、川(堰(せぎ))の水を使っているところもあり、ごみ捨て場とともに、これまた伝染病撲滅(ぼくめつ)のための課題であった。
十月の初めには、妻科神社の祭礼で煙火(はなび)が打ち上げられた。堂庭では甘柿が売られ、焼き芋がいい匂いをただよわせるようになる。中旬からは、大峰山の松茸(まつたけ)狩りが始まる。一〇~二〇銭の一日限りの山札を買い求めて、山に入る。松茸狩りより、持ちこんだ酒を楽しむ人たちもいた。十一月初旬に、各学校では運動会がおこなわれ、親たちもいっしょに楽しんだ。二十日には、岩石町の西宮神社の祭礼(えびす講)で、狭い道筋に五、六十軒もの露店がならび、大黒・恵比寿の縁起物や熊手・出世だるま・招き猫・福俵などが所狭しとならべられ、それを求める人や参詣者で身動きできないほどであった。高土手では、大煙火がおこなわれ、多くの花火師たちが技を競い、人びとを魅了した。各商店も店先を飾りたてて、祝売をして人を集めた。
十一月、十二月は米・あわ・豆や、菜・大根などの収穫の時期であるとともに、麦まき・桑畑の手入れや漬物・薪炭などの冬越しの準備に、農家も非農家も忙しくなる。山に雪がくると、飯綱山や西条の山では、うさぎ狩りがおこなわれる。歳末には、商店の売り出しがあり、官庁や会社では、大きな門松を飾るようになった。