明治三十年(一八九七)一月十七日午前一時ごろの微震につづいて、同五時三六分に現長野市域の千曲川沿岸地域を中心に大地震が発生した。この地震は水平動と上下動が重なり、約四分間にわたるかなりの強震であった。
内務大臣にあてた本県知事の報告内容は、この地震は五一年前の弘化(こうか)四年(一八四七)の善光寺大地震以来の強地震であったが、家屋などの多少の被害を除いて人畜等の被害はなかったとのことであった。地震の中心は上水内・上高井両郡界である千曲川の沿岸がとくに激しく、最初は上下動でその後東西水平動に変化した。
なお、各地の災害状況をみると、埴科地方の屋代・松代付近は午前一時前後に微震があり、午前五時四〇分強震となり、その震動は約五分間ほどであった。雷鳴のような響きがあり人びとはみな屋外に避難したが、建物に異常はなかった。
更埴地域の塩崎付近は、午前五時四五分ごろ強震があり、震動約五分間で、家屋建物などがやや傾き、戸障子などの開閉ができなくなった箇所が発生した。
上高井地方の須坂付近は午前五時四二分に強震があり、震動時間は約三分間で、人びとはおおかた社寺の境内などに避難した。家屋の壁などに多少の亀裂(きれつ)を生じ、なかには半壊にいたったものがあり、また、千曲川沿岸各村において過去に水害を受けた田地などは地割れがひどく、泥砂を噴出した。強震後ときどき微震があり、午後二時までに二十余回を数えた。
上水内地方においては、午前五時五〇分ごろ朝陽村大字屋島で二ヵ所にわたって深さ一・六から一・八メートルにおよぶ井水が地上にあふれ出した。混濁した井戸は二十余ヵ所におよび、地盤の亀裂も各所にみられた。柳原村字布野においては物置屋根、土蔵のひさしの墜落したものが各一ヵ所、その他、戸障子などに亀裂を生じたものがあった。
長沼村では、人家の小破したものが二戸、土蔵屋根およびひさしの墜落したもの六ヵ所、その他千曲川沿岸の桑畑で地上に亀裂を生じたところ数ヵ所が認められた。
この地震の震源地は長沼地区を中心とした千曲川沿岸と推定され、この地域一帯が古くからの泥砂の層により地質が軟弱のため、地震のゆれを大きくしたと考えられた。もともとこの地域は大水害が連続し、地盤のゆるい場所であった。この地震により、長沼地区は地中から赤い土が大量に噴出し、大部分の家屋が傾いたといい伝えられている。
この地震による被害は全般的に軽微であり、家屋の倒壊や人畜の犠牲もなく、直接住民生活に影響をあたえるほどのものではなかった。