市消防組の組織

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長野市制が実施されたあと、長野市は消防組の組織変更を二度にわたっておこなった。第一回は明治三十一年(一八九八)三月四日の市会における議決で、市消防組を七部に分け、各部に部長一人、小頭二人を置き、各部に腕用(わんよう)のポンプ一台を置くというものであった。第二回は、三十八年十二月二十三日の市会の議決によるもので、本市の消防組を六組に分け、一番組より六番組までとして各組に組頭一人、小頭三人を置き、各組消防手の定員を五〇人とし、別に火防給水係消防手一〇人を置き、それを第一番組に所属させるというものであった。

 三十三年段階における現長野市域の消防組織は表54のようであった。


表54 現長野市域の消防組頭氏名ならびに役員数等一覧

 つぎに金馬簾認許記録によって、三十四年以降の長野市消防団の火防・水防活動の事績をみてみよう。金馬簾認許記録(表55)によって長野市消防団の活動内容と活動範囲がわかり、市内の火災はもちろんのこと、上水内郡の平坦部の各地に出動している状況が示されている。また、火災だけでなく、水災・水防にも出動し、その功労の一つ一つが累加記録されている。


表55 長野市消防組金馬簾認許記録

 長野市消防組は毎年一月のはじめ出初式をおこなった。その日は、招集の警鐘に応じて長野市の消防組合員全員が長野警察署前に集合し、そこから長野県師範学校西の運動場に整列、そこへ警務部長が保安課長・警務課長・長野警察署長以下警部巡査を引率して臨場、点検するのを例とした。その後県庁前にきて、梯子(はしご)乗りの技を演じ、消防溜池(ためいけ)から引いた水を用いてポンプの進水を試して式を終了する。すべて進行ラッパの音でおこない、それが木遣(きや)りの声と相応じて勇ましかったと伝えられている。

 また、それとは別に、年一回程度の訓練式も実施されていた。長野市消防組七部四〇〇人は、例年午前七時と七時半の二回の演習信号の警鐘により、器具をたずさえて警察署前に参集して演習地の丹波島に向かって行進した。訓練内容は梯子曲乗り、ポンプ備え方の競争、水防実地競争および連結運動であった。

 長野消防夫点検と称する消防訓練も、市の中心部である善光寺・官公署所在地においておこなわれた。この訓練は、まず、善光寺本堂西側の空き地で器械訓練をしたあと、全消防組を三手に分けて、県庁前・湯福神社・公園地で、ポンプの連結・発水・散布の実技演習をした。