明治二十年代の終わりから三十年代にかけての防疫上最大の問題は、赤痢(せきり)の蔓延(まんえん)であった。二十九年(一八九六)七月以降県下各地に発生、患者五四八二人、死者一一一六人、死亡率二〇・三パーセントに達した。翌三十、三十一年と大流行し、三十一年の死亡率二四・二パーセント、実に四人に一人という高率であり、上水内・上下高井・更級・東筑摩郡に多かった。上水内郡の場合、九六二人の患者のうち二八四人が死亡し、死亡率は二九・五パーセントに達した。長野市は、三十年の赤痢の死亡率が三〇・五六パーセントで、腸チフスも二八・五七パーセントにのぼった(表56)。
これらの病気は、明治二十九年以来の大水害で水害地域であった上水内郡・更級郡をふくむ現長野市域に多発した。飲料水の汚染、防疫活動の不備と住民の衛生知識の欠如等も要因であり、県知事は下水・糞尿(ふんにょう)混入による河川の汚染を心配して、三十九年四月、長野市に対して鐘鋳(かない)川の水の飲用水への使用を禁止させた。
長野市は三十三年十一月十五日に市内各衛生組合長を、翌十六日に各区長を市役所に招集し、市長から、同年十一月二十二日からの汚物掃除法施行についての通達がなされた。席上、各掃除義務者が用意しなければならない汚物等の容器について相談した。なお長野市は、汚物掃除法の実施方法を、『信毎』や『長野新聞』に登載し、市内掲示場にも掲示してその徹底をはかった。
長野市の汚物処理状況については、明治三十六年現在において、年間搬出汚物の全量は四〇〇〇トンに達し、この搬出や、下水溝・川の浚渫(しゅんせつ)に要した延べ人員は六万一九三二人にのぼり、その賃金は一万八五七九円余にのぼった。汚物の処理は伝染病予防との関係においても、当時の大きな課題であった。
長野市においては、市制施行後、三十年代の前半に衛生管理の改善のために衛生組合の設立に努力した。市内三八区に各衛生組合を設置しようとして指導を始め、三十三年六月には一七区東町、二六区妻科、一〇区元善町、三〇区西後町などの衛生組合が設立された。その後各町につぎつぎと衛生組合が結成され、三十三年度中には全市につくられた。
この時期に特筆されなければならないのは、清潔法の実施であった。これは、明治二十八年五月、町村清潔法施行準則が定められた結果であった。市町村は、溝渠(こうきょ)下水・汚水溜(おすいだめ)の浚渫掃除、飲料水・使用水近くの清潔、戸口密集地の消毒の施行などを定め、家庭の畳・衣類の日光消毒などとこまかく指導した。実施期間中、市町村の職員・巡査が巡視にあたった。毎年春秋二回の清潔法を実施し、不十分の場合は再執行が義務づけられた。長野市の三十二年の場合、市内約六千戸のうち四八九戸が再執行とされた。また、市主催の衛生幻灯会が開催され、清潔法施行や伝染病予防等について啓蒙(けいもう)活動をおこなった。たとえば、三十三年三月十七日には鶴賀新地事務所においておこなわれ、助役、検疫委員、調剤委員、市衛生課長、警察署長、巡査部長などが出席して、衛生心得・赤痢等伝染病・貸し座敷のこと・清潔法のことなど説諭がおこなわれた。出席者は五三〇人にのぼった。