明治十年(一八七七)の西南の役(えき)の最中、佐野常民らにより設立された博愛社が基礎になって、十九年十一月、日本政府はジュネーブ条約に加盟し、博愛社は二十年八月に日本赤十字社と社名を改めた。二十年七月「地方委員及び支部規則」が制定され、二十二年四月「長野委員部」が発足し、委員長に知事が就任する。そして二十三年四月に、日本赤十字社長野支部と改称する。同年八月中の現長野市域関係郡の支部人員は表57のようであった。
明治二十四年八月、第一回の支部大会が県会議事堂で開かれ、約千人の関係者が集まり、新しく四九九人の正社員を募集した。三十年ごろより、日本赤十字社長野支部専属病院設立の機運が高まり、そのための公立病院の買収論議がなされるようになった。当時の『信毎』は当局の談として、長野公立病院買収説の理由をつぎのように報じている。
戦時救護員の養成のために、二つの方法がある。第一はその養成を長野公立病院に委嘱する方法、第二はこれを買い入れて日赤長野支部の付属にする方法がある。第一の方法は、教授上不親切になり戦時の準備医としての契約もとれず、いざという時に役立たない。また医員と看護婦との連携もとりにくいので上策ではない。したがって長野病院を買収して実際に患者を取扱い、実地の伝習を積み、医員と看護婦とを一つの場所から出動させて、十分働けるようにすべきである。
これらの世論を背景にして、三十六年七月十五日、平時は準備救護員の養成、戦時は傷病者の救護を目的にした「日本赤十字社支部病院創立準則」がつくられた。市立病院を日本赤十字社長野支部に譲渡するかどうかは長野市にとって重大な問題であった。長野市会の特別委員会等においても、その利害について多角的検討がなされた。利点としては、日本赤十字社本部の監督のもとに完全な運営が期待できること、だれかれの差別がなくなり患者の扱いが平等になること、売却の代金が入り市財政が豊かになること、などがあげられた。不利な点としては、支部病院となれば官僚的となり患者の不満を訴えることができなくなる、市民中の急患者への対応が円滑にいかない、などが出された。しかし、検討の結果同年十二月関係者の合意が成立して、既設の市立長野病院の譲渡の議がまとまり、四万五〇〇〇円で長野市が日本赤十字社へ譲渡することが決まった。そのうち二万五〇〇円は、長野市から長野支部病院創立費の一部として日本赤十字社長野支部へ寄付された。土地建物は原形のままで、諸規則その他は長野病院所定のものを引き継いで、三十七年四月一日、市立長野病院は日本赤十字社長野支部病院となった。長野支部病院は、山田(三重県)・大津(滋賀県)・台北(台湾)の三病院とともに、全国の他の支部にさきがけて開設されたのである。
初代院長には今井政公が就任し、診療科目は内・外・産・婦人・耳鼻・咽喉・歯の七科で、病床数は六〇床であった。三十七、八年戦役にあたり、第四四救護班を編成し東京予備病院の所属とし、本院、熱海、軽井沢および追分転地療養所に派遣した。さらに第四五救護班を編成し病院船勤務にあてた。