県下ではじめて使われた電話は鉄道用であり、それについでは電報送受用電話であった。明治二十二年(一八八九)三月「電信電話線私設条規」が定められて、製糸業や旅館業の社内連絡用に使われはじめた。現長野市域では、二十六年七月、旅館五明館が、大門町の本店と長野駅前の支店・別館とのあいだに自家発電による電話線をしいて通話したのが最初であった。明治三十年代の後半になると電話架設(かせつ)への要望が高まった。長野市商業会議所が関係当局に意見書を提出するために調査したところ、希望者は二九四軒に達した。
明治三十九年に入ると、数年前からの懸案であった長野市の電話架設問題が具体化してきた。水品平右衛門会頭をはじめ鈴木小右衛門市長、前島・矢嶋代議士らは二月二十八日に逓信(ていしん)大臣、次官、経理局長と懇談し、その早期実現を陳情した。その後の猛烈な運動の効果が実って、九月には長野郵便局で電話加入申し込み二三〇件(単独二〇〇、共同三〇)に対する「登記順番」(電話番号)を決めて、関係者に通知した。それによると、一~三番県庁、四番市役所、五~八番裁判所など二五番まで官公庁が名を連ね、そのあと株式会社がつづき、三五番で初めて大門藤井平五郎と個人名になる。
明治四十年一月二十日の電話開通のとき、架設された電話数は一三八、これに連接加入を加えると一四一であったが、長距離加入は六二にすぎなかった。その後、電話未架設のうえに架設希望が増えていったのにともなって、商業会議所は長野郵便局とはかって、若干の架設負担金をとってでも加入希望者の要望に早くそえるよう、逓信大臣に進達した。
一月二十日に城山館でおこなわれた電話開通祝賀会では、主催者代表の水品会頭が電話開通にいたるまでの経過と将来の希望を述べ、逓信大臣ほか関係者の祝電・祝辞代読がおこなわれた。外では煙火(はなび)数百本を打ち上げ、講談、落語、手踊り、園遊会などいろいろの催しがおこなわれた。各戸は国旗を掲げ、商店は祝売の旗をたて提灯(ちょうちん)または万国旗で飾るなど、十一月の恵比須(えびす)講のようであった。
また、同四十年には松代・丸子・小諸の三局が交換を開始した。それらの地域は製糸業を中心とした産業・経済上の重要な地であった。松代においては製糸家が中心となって開設を請願し、四十年七月一日から架設工事に着手し八月中に開局した。加入者は当初は四三人であった。
松本・長野間の電話も四十年二月ころから漸次改善され、電話線の改修により円滑な通話ができるようになった。いっぽう長野市内の電話の新規加入希望者は、開局四ヵ月後の四十年三月には二〇〇人を超え、その需要にこたえられない状況であったが、加入者数は四十年度中に約二倍の二九二人に増加した。また、長野市電話度数表によれば、加入者相互間通話度数は一年間に約四倍に増加し、加入区域外との通信度数も約十倍となった。