市による最初の引水計画

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明治三十年(一八九七)四月長野市制が施行されると、長野市による新たな引水の動きが始まるが、明治三十七、八年の日露戦争のために実現を見ずに終わる。その主な動きを『信毎』紙上に拾ってみるとつぎのようである。

 明治三十一年一月六日、長野市飲用水および田用水補足の新起業として、若槻村の高橋八十吉、大豆島村久保田直蔵の二人は、北安曇郡松尾川の水を疏水(そすい)によって引くことを市参事会などに請願したが、このあまりに遠大な計画は受け入れられなかった。

 三十二年四月鈴木小右衛門が市長に就任すると、これまでの姑息(こそく)な仕事をやめて、周到完全な調査をするにあるという抱負をもって、同年十一月十一日水利事業調査会を発足させその席上、市長上京のさい、相当の技師に依頼し長野市引水の調査を託することを決めた。その後二年間にわたり県の安田技師・山形技師と浅川工科大学生らの手により調査が連日のようにおこなわれ、その水源候補地は、芙蓉(ふよう)湖(野尻湖)、裾花川、犀川、姫川、戸隠の逆川と瑪瑙(めのう)沢渓流などの多数にのぼった。しかし、このうちの多くは工事が困難であったり、田用水の関係などのため、けっきょく可能な候補として残ったのは芙蓉湖と瑪瑙沢渓流の二つであった。

 芙蓉湖の水は、安田技師の調査測定で、城山付近まで引き、貯水池、濾過(ろか)池、浄水池を設置するだけで六三万円、それに市街への分水費を加えると総額七〇~八〇万円の見込み。いっぽう瑪瑙沢の水は、山形技師と浅川工科大学生の調査測定で、総延長八〇〇〇間(約十四キロメートル)、途中飯綱原に貯水池をつくり往生地まで鉄管でひき、貯水池、濾過池、浄水池を設置、それに市街への分水費を加えて総額五四万円前後の見込みであった。この両者の水質検査も数回おこない、方向は瑪瑙沢にかたむいた。それによりさらに両技師による調査がつづいて三十五、六年にもおこなわれ、計画は実施一歩手前まで進んだ。しかし、五四万円余の経費をどう生みだすか、国庫補助、県の補助、市の財政計画などが大きな壁であり、加えて日露戦争の勃発による時局の影響を受けて、けっきょく長野市による最初の引水計画は休止のやむなきにいたった。市による計画が進行中も、各町や個人によるさまざまな引水計画がみられた。それらの主な動きを『信毎』はつぎのように報じている。

 明治三十五年一月、西長野の石材請負職人松田文太郎は、往生地の側で清水の湧(わ)きでる場所を掘削して長野市へ引水するためすでに七、八間掘り、さらに一〇〇間(一八二メートル)も掘る計画で進行中。同年三月伊勢町・新町・岩石町の有志は、浅川の水を引く計画をたてている。また、児玉正俊・柄沢利藤太・白澤文吉・松橋豊吉・柄沢文太郎らは、西長野境の奥、葛(かつら)山の麓(ふもと)を掘り、八寸土管くらいの飲料水を得るためすでに起工式をあげた。このほか、犀川の水を長野電燈株式会社の残余水力電気を利用して揚水する計画。旭山の権現滝よりの引水計画等々があげられるが、いずれも本格的に実施に入ったり、成功したものはなく、本格的な長野市の上水道事業は明治四十年代から大正の初年へおくられることになった。