明治二十二年(一八八九)から四十五年までの、長野市の米・小麦・食塩・醤油(しょうゆ)・清酒などの日用食料品類の物価の動向は表58のようである。明治二十年代に比べ三十年代の諸物価は全体的に値上がりの傾向にあり、四十年代はさらにその傾向が強くなるといえる。米価は二十三年と三十年、三十五年、そして三十八年以降に値上がりのピークが認められる。小麦は米価と多少違い二十五年以降年々値上がりがあり、三十年に値上がりの山、そして三十七年以降三ヵ年が値上がりのピークとなっている。食塩は三十年に値上がりし、三十二年以降にピークを示し、四十年代以降は二十年代の二倍以上となる。醤油は三十年以降急激な値上がりがある。清酒は三十一年に急激な値上がりがあり、さらに三十七年以降も年々値上がりがみられる。これに対し、農村や都市の日雇い職・土木労務職・奉公人などの労働賃金は、物価が上がっても必ずしも上がるということはなく生活は大変であった。三十年は日清戦争後の恐慌(きょうこう)で飯田地方や上田では米騒動が起きている。
三十一年『信毎』は県下細民の状況をつぎのように報じている。「衣類は売却・質入れにし、下等米または南京米に麦・粟(あわ)・稗(ひえ)を混ぜた混合米を上等として、多くは麦・粟・稗等の雑穀に野菜・雑草を加えたものを常食としている。なかには豆腐がらに雑菜を加え、フスマ粉・野菜のみを食する細民もいる。その多くは借家住まいで、畳のあるものはわずかであった。県下細民の戸数は約一万六千戸で、一〇〇戸に七戸、人口千人に六五人にあたる。細民中農業に従事する者はたいていは小作人、あるいは他家に雇われているが、物価騰貴の影響を受けて解雇されたり、労働日数が短縮されたために現金収入が減り生計が成り立たなくなっている。小作人であっても穀物以外の食品を求めることは困難である。一日の生活費は一人あたり一〇銭はかかる。壮年の収入は男で普通二五銭、女子で一〇銭ないしは一二銭であるが、細民の家族は老幼婦女子が多いために現金収入だけでは生計をたてることはできない」。零細住民の生活状況の劣悪化と物価騰貴が大きな社会問題となってきたことがわかる。
長野県では三十五年と三十八年に一一件の小作争議が起きた。そのうち三十五年は長野市で一件、上水内郡で一件の小作争議があった。これは必ずしも多いとはいえないが、その原因はその年の凶作にあった。当時の『信毎』と『長野新聞』はともに「地主と小作人」の記事を載せ、そのなかで地主と小作人の協調を強く主張し、これが社会問題にならないように警告を発している。丸茂天霊が『雪の田舎』という小説のなかで、「点々たる伏屋の雪に埋もれたる中に、四辺を睥睨(へいげい)して立てる大きなる一構は、この近郷に隠れもなき財産家にて、先年郡会議員に当選した何某の住家である。ここの村人は皆この財産家に小作米を納め利子を払うが為に、食うや食わずに働いている」と川中島の農村風景を描写しているように、この時期の農村は地主と小作人のこのような関係がふつうであった。
三十八年以降は日露戦争後の慢性的なインフレがつづいた。長野市ではこの年の三月、諸営業者の廃業が表59のようにあいついだ。週刊『平民新聞』は「戦争が生める窮民」としてこの問題を取りあげ、窮民にも軍人同様に家族救済をおこなうべきであると主張している。
この時期は労働組合というようなものはまだ未成熟で、労働争議も散発的に起きているにすぎない。佐藤桜哉(おうさい)は松代の製糸工場で働く工女の生活を記事にしているが、労働時間は日の出から日没まで、食事は食べ放題、給金は工女の働きしだいであるなどと書き、労働条件はあまり問題としていない。しかし、そのなかで工女の細腕(ほそうで)で親・兄弟のために働かざるをえない工女の身の上に同情している。