社会主義の研究活動

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日露戦争前後における日本の資本主義の発展は、いっぽうで、労働問題・農民問題などの社会問題を発生させ、その解決をめざした社会主義の研究と運動が高まってきた。長野県下においても日露戦争前後、各地に社会研究組織が生まれている。長野県は当時、東京・大阪などにつづいて社会主義者が多かったといわれている。

 明治三十七年、長野市に丸茂天霊らを中心にして黒潮会が結成された。黒潮会結成は、木下尚江の長野市遊説が契機となった。木下の遊説は平民社の全国遊説の一環であり、県内では小諸町・上田町につづいて七月十六日から三十一日にかけておこなわれた。この遊説では立川雲平と佐藤桜哉が先導役をつとめている。立川は佐久地方で自由民権運動を積極的に推しすすめたのち衆議院議員となり、国会では社会主義者言論に対する政府の弾圧を批判する演説をおこなっている。この時期は長野市に在住し、北信英語義塾を創立、キリスト教を基調とした学校経営をおこなっていた。

 木下は二人に案内されて、まず善光寺門前の一膳(いちぜん)飯屋大丸に入り昼を食べた。大丸はもと呉服屋であったが、鉄道開通の影響をまともに受けて、呉服業は東京の三井・白木屋などに圧倒されてとうてい競争できないため、呉服屋を廃業し、一膳飯屋になった。この事実を聞いた木下は、呉服屋から一膳飯屋への変化を驚異の目でみ、「是れ豈(あ)に余が千言万語に勝りて社会主義の必要を長野市民に説明するものにあらずや」と『平民新聞』に一膳飯屋大丸の報告を載せている。北信義塾では「経済的に観察せる日本史」を概説、その夜千歳座の政談演説会にのぞんだ。会するもの六百余人、木下は社会主義者の戦争観について演説をした。城山館には戦争幻灯会があり、城山公園では児童の旅順陥落提灯(ちょうちん)行列の練習がおこなわれていた。

 翌二十七日は長野市内の青年たち数人によって発起された社会主義研究会の協議会に出席し、青年たちと会談した。「既に立川氏等によりて同じき企(くわだて)あれば合同組織のことに決す」と木下の報告書にあることから、長野市内には青年たちの社会主義の組織をつくる動きと立川雲平らを中心に社会主義を組織する二つの動きがあったことがわかる。「合同組織のことに決す」とあり、このなかから黒潮会が組織されてきたと考えられる。

 八月十四日の『平民新聞』には「黒潮会とは泉会の後身なり、去る四日の談話会席上に於いて余りに柔弱に聞ゆるより改名したるなり」とあり、七月の木下遊説後八月に入ってまもなく黒潮会の誕生となったことがわかる。九月二十四日には第四回例会が開催されており、誕生からわずか二ヵ月余りに四回の例会が開催された。「この日新入会員三名あり」と『平民新聞』の黒潮会通信にはあり、次第に会員が増えてきているようすがうかがえる。この時点で会員は一一人を数えている。「本日以降各会員は夫々(それぞれ)部所を定め、長野市の研究会に着手すること」を決議していることから、かなり組織的な活動を展開しようとしている。このとき、会員の物集女(もずめ)得三は飯山町に移転、「同地に於いて同志を糾合すること」を約束して飯山に出立した。

 黒潮会は丸茂天霊と佐藤桜哉が中心メンバーであった。佐藤は『信毎』の新聞記者で日露戦争を機に「生命を惜しむべし」という論評を書き、「艦は徒(いたず)らに惜しむに足らず、人は惜しむが上にも惜しむべし」「生命を粗末にするな、戦死を急ぐな、生きられるだけ生きて、花々しく、目覚ましき働きを取れ」と反戦の立場から生命の大切さを主張している。

 丸茂は山梨県北巨摩(きたこま)郡生まれで、二一歳から長野郵便局に勤務している。その後、鉄道郵便局に勤務するかたわら『平民新聞』に懸賞小説を応募したり、購読者となっている。日露戦争開戦にあたり「豆腐粕に塩を和して食する者、今春に比して殆んど八倍せる」「声を低うして親戚朋友の悲惨なる戦死を語り会えるを聞く」と戦争が市民に何をもたらしたのか、長野市民の状況を『平民新聞』に投稿している。

 佐藤や丸茂が述べているように、社会主義研究グループの成立の要因は、日露戦争開戦という社会情勢の影響がことのほか大きかった。長野市の城山で明治四十一年に開催された一府十県連合共進会の事務局に勤務していた屋代町生まれの新村忠雄も、兄善兵衛の召集や壮丁の召集で、悲惨な生活を送る近隣の家族たちの生活をみて社会主義に接近したと述べている。また、いっぽうで長野市にキリスト教が入ってきたことも社会主義の研究活動に影響をあたえていることも見逃すことはできない。

 その後、社会主義の機関誌には黒潮会は登場してこない。黒潮会の活動を継承するかたちで、長野市を中心とした社会主義運動が再び社会主義機関誌に登場するのは明治四十年代になってからのことである。