明治二十八年(一八九五)から四十年までの大勧進養育院への入院人数は表60のようである。入院数は三十三年に急激に増加し、それ以後年々増えつづけている。養育院への収容の事由をみると、捨て子は二十年代には四人であったのが、三十年代前半は七人、後半は八人と増加した。捨て子がこの時期町の社会問題となっていたのである。
このような社会問題について、行政の認識はきわめて弱く、まだ社会福祉制度といわれるほどのものはほとんどなかった。捨て子や身寄りのない幼児・老人の養育は民間にまかされていたのである。明治十六年三月、善光寺大勧進内に設立された大勧進養育院が、長野県下唯一の施設として存在するだけであった。三十三年、養育院拡張の話が具体化し、数十人を収容する収容舎が慈善寄付金によって新築された。資金は五ヵ年賦の寄付金を募集してまかなう計画で始められたが、募集は日露戦争とその後の戦後不況の影響をまともに受けた。慈善金は減少するいっぽうで、入院を懇願するものは急激に増加という事態におちいったのである。収容が追いつかないために、四十一年第二次の拡張計画がなされた。今度は県内各郡村落へは慈恵米の寄付、市街地各方面は年賦寄附金という方法をとった。寄付金は一口六円で募集がおこなわれた。三月までに一〇五五口、総額六三三〇円が集まっている。「頗(すこぶ)ル同情ヲ寄セラレ、慈恵米ハ頻(しき)リニ寄送セラレ寄付金ハ快諾セラルルノ状況ナルヲ以テ、今後大ニ拡張ノ事ノ至ルヘキ現況ナリ」と、前回とは状況が大いに違うことが養育院『年報』には紹介されており、人々の社会事業に対する関心がしだいに高まってきているようすがうかがえる。
三十年代になり社会事業への関心はしだいに高まりをみせ、各地につぎのような動きがみられるようになる。
上水内郡芹田村の川合新田の北村市左衛門と山崎虎四郎は、三十二年同村地内に区内の窮民を救済する目的で養育院を設立した。入院者は十余人で、その費用は区内一般の負担でまかなわれた。三十四年には角尾長野県典獄と大勧進をはじめとする宗教家が中心になり、信濃慈善会組織のための協議会が生まれている。また、松代町の海津仏教教会は同町の困窮民のために救恤(きゅうじゅつ)事務所を設立し、困窮民二〇戸に毎日一人あたり白米二合を支給している。長野婦人会は慈善演芸会や慈善幻灯会を開催し、その入場金や寄付金を長野盲人教育所の寄付金や貧困家庭の児童の就学督励の費用、児童の学用品補助にあてている。キリスト教連合青年会は孤児院を設立、なかでも中野節は「かつて中野節一名の孤児を救ひし者之(こ)れが初めなり」と『護教』にあるように、長野市の孤児院設立に大きな役割を果たしている。キリスト教信者のなかには盲人(目の不自由な人)もいたため、教会そのものはこれらの人のために施設を考えざるをえない立場にあり、こうした動きが「私立長野盲人教育所」開設の礎石となっていった。
いわゆる「非行少年」対策も貧弱で、明治三十三年三月感化法が公布されたのちも、長野県下では依然として長野監獄と上田・松本・飯田の各監獄支所に置かれた懲治場で、懲治という観念の対策だけがつづけられていた。四十一年十月の刑法改正により、一四歳未満者の行為は罰しないということで感化法が改正され、感化院が設立されることになった。長野県はその年「感化救済諸費」として経常費・臨時費計九九七七円余を計上、埴科郡(現長野市域)に県立感化院の建設を決定した。当時八〇〇人程度の非行少年が数えられ、そのうち懲治場に拘留されるものが年々十四、五人なので、収容人員十四、五人を目途に計画が進められた。
四十三年五月、埴科郡西条村に総坪数四五八坪、建坪一三〇坪の県立感化院(別名海津学舎)が設立され、六月開院式が挙行された。
これより前の四十二年四月『信毎』は「新設の海津学舎」の特集を組み、仮学舎のもよう、学長および教師、方針、地元の受けとめ方、感化院の効果などを報じている。「開始とはホンノ名ばかりにして未(いま)だ一名の収容者もなく、学長小林喜重氏・助手成田せい子氏の両氏は学舎内の準備中なり」と開始まもなくのようすを記事にしている。小林喜重は長野監獄の懲治人教師をつとめ、助手の成田せい子は下水内郡秋津小学校の尋常科正教員をつとめていた。
最初は松代の清須町に仮学舎で発足した。仮学舎は関山家の邸宅をあてた。間(ま)数は八畳二間・六畳二間、炊事場・湯殿等を備えていた。関山は県の土木吏員(りいん)で、長男国男は長野盲唖学校の教師をつとめていた。炊婦は国男の妹がつとめた。「この家が感化院に使用せらるるは何かの因縁あるが如く思わる」と新聞は評価している。
海津学舎の方針は「家族主義」をとった。家族主義とは「学長も教師も総(すべ)て入院児と同室に寝食を共にし、家庭教育を以て感化の本領とする」方針をいう。したがって、学舎の周囲にはさくなどの設置はなかった。埼玉県浦和の感化院を模範としたという。家族主義のもとで、基礎的な初等教育のほかに、勤労を重んじ趣味を養い、生徒の自立と忍耐力を育てるために勤労奨励金の制度をつくった。舎内外での農耕・養鶏・花卉(かき)栽培・作物販売などのほか、いろいろの事業主に仮委託して各職業の見習いをさせた。
地元は、感化院とはどんな施設なのか理解できず、「監獄の支店」などと誤解して、「監獄の支店に海津の名を冠するは松代町を侮辱するものなり」という旧藩士や、「泥棒学校ができた」と思いこむ小学生もあり、感化院設置の受けとめ方はきわめて社会的な無理解と偏見をもったものであった。