鶴賀遊郭と自由廃業の動き

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鶴賀遊郭の貸し座敷数は、明治十六年(一八八三)に四七軒あったが、開設後六年間で一二軒が入れかわっている。同二十五年三九軒、三十五年三三軒、四十年三五軒としだいに減少した。しかし、娼妓(しょうぎ)数は十六年三〇〇人、二十五年三一七人、三十五年二九三人、四十年二七二人とつねにほぼ三〇〇人前後が稼業していた。これは小規模貸し座敷業者が減って、中大規模貸し座敷業者が残ったことを示す。同二十七年、娼妓一〇人以上を抱える貸し座敷業者は、金井屋・根中楼・双葉楼・柏屋・紀伊屋・中屋・栄屋・大黒楼・三都一・藤本・越前屋・文明楼・田中楼・宮川・永輝楼・林屋の一六業者である。このうち、金井屋は娼妓二三人・芸妓一人、大黒楼は娼妓二〇人・芸妓一人の大人数を抱えて営業していた。

 家庭の生活苦から娼妓になる女性は、娼妓稼業願い・娼妓御鑑札願いを提出して許可を受けて稼業することになるが、その前に女性側と貸し座敷業者とのあいだで約定書の交換がおこなわれていた。明治十四年五月の某女の場合でみると、つぎのようである。①座敷料は五〇銭で、六割の三〇銭は貸し座敷業者へ納め、残り四割の二〇銭が娼妓の収入。②娼妓の賦金(税金)は、一括して貸し座敷業者が納める。③娼妓の着物・化粧品・小間物・薬などの諸雑費は貸し座敷業者が貸与して、娼妓は稼ぎ高から返済する。④娼妓が廃業する場合や他へ稼ぎ換えする場合は、残存の借金は元利とも娼妓の保証人から弁償する。⑤本人が病死した場合は、加判の親戚請け人がそのなきがらを受け取り、娼妓の借金が残っていた場合は弁償する。⑥借用金の利息は、一ヵ月二分(二パーセント)の利子が加算される、といった内容で、女性側にとって大変不利なものであった。

 このようにして始まった娼妓の稼業生活を、少し年代がずれるが、四十年代の一娼妓の収支計算帳(表61)でみるとつぎのようである。


表61 『娼妓の収支計算帳』(明治42年9月~45年7月)

 この女性は、明治四十二年九月に二〇〇円の前借金を背負って娼妓となった。毎月の賦金と取締所費が加算されて、稼ぎ高の半分は貸し座敷および賄い料として納めなければならないので、本人の所得はごくわずかとなって、前借金を減らすところまでいかない。そのうえこの娼妓は、三ヵ年に九回も入退院を繰りかえして、この入院費・薬代などもすべて自弁となっていたので、借金は増加して同四十五年七月には三一八円八八銭五厘にもふくれあがった。

 この三ヵ年の稼ぎ高を計算すると四〇九円六五銭であったが、その半分は貸し座敷および賄い料として業者に納めるので、残り半額の二〇四円八二銭五厘が実質の収入であった。これだけ稼げば、借金はもっと減っていいはずであるが、賦金・小遣い・着物代・化粧品代・入院費・薬代・食費などが前借金に加算されて借金として増えていき、娼妓稼業から抜けだせなくなったのである。


写真33 娼妓の玉帳と計算帳

 これよりさき、明治三十一年(一八九八)七月十六日民法が施行された。この民法の第九〇条「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」を受けて、内務省は同年十月二日、娼妓取締規則を出した。そのなかの第五条「娼妓名簿削除の申請は、書面または口頭をもってすべし」、第六条「娼妓名簿削除の申請に関しては、何人(なにびと)といえども妨害をなすことを得ず」によって、法的に娼妓の自由廃業が認められるようになった。この法にもとづき、借財を負う芸娼妓の身体を拘束する契約を結ぶことは無効となった。これにより、娼妓のなかに負債を返済しないで廃業しようとするものが出てきて、各地に業者とのあいだで紛争・訴訟が起こった。しかし、大審院判決や名古屋地方裁判所で、娼妓側の勝訴判決が出ると、貸し座敷業者は大恐慌におちいった。


写真34 明治33年に芸妓娼妓たちの自由廃業の手続きの案内書として、法的根拠や書式まで載せて出版された『芸娼妓廃業手続独(ひとり)案内』
(国立国会図書館所蔵)

 長野県内の娼妓の自由廃業の数は、明治三十三、三十四年の場合は表62のようであった。三十三年にはわずか一二人であったが、三十四年には五九人と激増した。自由廃業の波が県内にまで押し寄せ、娼妓の自由廃業がつぎつぎとおこなわれていったことがわかる。両年の合計七一人のうち、鶴賀遊郭の娼妓は四四人で六二パーセントを占めていた。『信毎』によると三十三年三月十日から三十六年三月二十八日までの三年間に、鶴賀遊郭で自由廃業した娼妓の数は五七人となっている。この自由廃業という打撃を受けた業者たちは、娼妓を抱えるのにあたってきわめて慎重になり、むやみに抱えなくなったので、娼妓数は減っていった。


表62 自由廃業娼妓数

 しかし、娼妓廃業は自由になっても、前借金はそのまま残った。しかも、娼妓稼業は公認されているということから、前借金を娼妓稼業で返済する契約は無効であっても、金銭貸借上の契約としては有効だとする判例が出て、自由廃業はしだいに困難になっていった。この判例は、契約を全部無効にすれば、娼妓の親たちが娘を勝手に鞍(くら)がえさせて、前借金を着服する可能性を生じるおそれがあるからというものであった。

 当時の社会で、若い女性が多額の金銭を稼げる仕事はほとんどなかったので、せっかく自由廃業しても、再び娼妓の世界に戻るものも出てきたようである。