明治時代に県内各地の学校においては、被差別部落の児童の就学が保障されるところは少なかった。教育平等への自覚をもった教員たちが、被差別部落の親たちの教育要求をうけて、児童たちの就学を実施しても、地域住民からつめたい目で見られたり悪口をいわれたりし、ときには圧力をかけられて転任せざるをえないことがあった。また、小学校とは別に被差別部落内に簡易小学校や分教場を置き、専任の訓導は置かず、本校からの教員の出張や授業生・助教員によって、当座しのぎの短縮された授業をおこなっているところもあった。
上水内郡大豆島村立大豆島小学校も同じような状況にあった。義務教育該当の児童が四十余人もいて、本校にも近いのに、被差別部落内に分教場を設けて、教員一人を本校から出張させて、一日二時間程度の授業をおこなっていた。こうした状況下の大豆島小学校へ、明治三十二年(一八九九)四月、保科百助(ほしなひゃくすけ)が校長として赴任してきた。
保科校長は「ご一新の今日、四民平等・一視同仁の世において、かくのごとき差別待遇をなすは不届至極(ふとどきしごく)のことである。すみやかに分教場を廃止して、現代の恵みに浴せしむべきである」と、教育上の差別的取り扱いを批判した。みずから村役場へ抗議を申しこむいっぽう、被差別部落へ入って新時代の平等思想を説き、役場へ差別撤廃の陳情をさせようとしたので、村中大騒ぎとなった。村役場ではなんとかなだめようとしたが保科校長も親たちも引きさがらなかったので、ついに条件をつけて本校入学を許可した。校長は村役場の吏員とさまざまなあつれきを生じて苦労も多かったが、この改革を勇敢に断行した。分教場を廃止して本校に統合したあと、被差別部落の児童と村の有力者の児童とを、同じ机に並べて学ばせた。こどもたちから差別意識を取り除き、因習を乗り越えさせようとしたのである。正規の授業を保障された被差別部落の児童の学力はしだいに向上し、それはやがて生活の向上にもつながっていった。
大豆島村の人びとはしだいに、保科校長の邪心のない人柄と曇りのない教育愛を理解し、高い見識と人格に共鳴していったので、教育権の確立と教育尊重の風が村内に浸透した。
当時の大豆島小学校は、明治三十一年の高等科設置を機会に新築されたばかりで、樹木の少ない殺風景な姿であった。保科校長は、樹木を植えて潤(うるお)いのある学校にしようと、村内からの寄付をつのったところ二〇〇本ほどえられることになった。そこで今度は、各家の庭先から掘りあげて運搬し、学校内に移植する人手を村内からつのった。すると、日ごろ尊敬する校長の頼みだからと、被差別部落の人たちは全戸からこぞって応募したので、二〇〇本もの樹木をわずか二日間で植え終えることができた。校長は二日間とも、夕刻に一斗入りの酒樽(さかだる)とするめ二把(わ)を持ちこみ、働き手一同にふるまった。それがその日の校長からの謝礼であった。その後の学校改築などによって多くの木は失われたが、玄関前のあすなろ(明日檜)は百余年の樹齢を重ね、今も当時の保科校長や村民の気持ちを語るように高くまっすぐ伸びている。
明治三十三年十月、保科校長は「自分は逆境に処して奮闘したが、幸いに今日は順境に向かっている。自分の責任が解除になったのである。すなわち大豆島を去るべき機会が到来した」といって、あとを北村志津男校長に託し、北佐久郡蓼科小学校長兼蓼科農学校長に転任した。そして翌年には、「人の子を賊(そこ)なひたる事少なからず」と辞表を出して学校を去った。