日露戦争と小学校

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明治三十年代は学校運営の基盤である教育費は、施設設備の充実・就学率の向上を目ざす方針とあいまって、増加の一途をたどっている。だが、三十七(一九〇四)、三十八年には日露戦争にともなう財政緊縮のため、いったん大きく減少している。

 明治三十七年二月、日露戦争が開戦すると、県や郡は、その直後から再三にわたり教育経費の節減を指示した。校舎不足であっても新築・改築を見合わせ、二部教授をする。学級数以外の教員は採用しない。運動会・修学旅行等費用を要する行事を見合わせる。教員の出張旅費を節約する、等々である。同時に、こうした事態にあっても教育の実質に悪影響が出ないように配慮し、教材・教具等は自作すること、また、学校林や記念樹の造営に励むこと、実業教育の奨励などを指示した。さらに、教育上の重要事項として、学校内に日露戦局の地図や軍艦等の模型、軍旗の絵画、出征軍人の写真などを設置すること、戦局の状況や奉公事業の現況などを知らせること、忠君愛国等の諸徳を養うこと、体育を盛んにすることなどをあげている。また、出征軍人の子弟には、授業料を減免し、学用品を給与することとした。

 以上のような指示を受けて、上水内郡では、戦争前に比べ、小学校高等科一〇学級、尋常科二八学級と大幅に学級数が減少した。また、教員の退職・休職は、代用教員を中心に一二〇人にのぼった。更級郡では、実業教育奨励の指示を受けて、戦時中新たに下氷鉋(しもひがの)・信田(のぶた)・東福寺・通明(つうめい)・大塚・西寺尾などに一一の農工補習学校が設置された。

 城山尋常高等小学校では、明治三十六年度予算は生徒一人当たり一一円四一銭であったが、翌三十七年度には七円四三銭と大幅に減額され、三十七、三十八年度の臨時教育費はまったく計上されず、経常費だけでまかなっていた。

 また、実際の教育内容への影響をみると、城山小学校では、「陸海軍に対する智識」「満州韓国の地誌」「我国の国民的精神」「我国の世界に対する位置」を教授し、後町小学校では、全校修身や修身の時間に、つねに戦時の「義勇奉公の活例」を採用して訓示した。鍋屋田小学校では、幻灯会を開催して戦争状況を児童に知らせた。また、予算削減によって、体操専科教員を置くことができなくなったため、師範学校教諭を招いて講習を受け、指導にあたっている。長野高等女学校では、満州冬営軍隊用に着背綿二五〇〇枚を調製したほか、軍隊用シャツ四〇〇組の裁縫を引き受け、その収益を長野恤兵(じゅっぺい)会と義勇艦隊に寄付した。さらに、軽井沢に収容された傷病兵の慰問(いもん)もおこなっている。私立信濃裁縫学校は、陸軍恤兵部や長野恤兵部、市内の軍人家族へ寄付をおこなうとともに、出征軍人へ私製封緘(ふうかん)葉書を寄贈し、軍用シャツ、ズボン下四〇〇組の調達等をおこなった。

 日露戦争の小学校ほか教育への影響について、当時の後町小学校長三村安治は、「時局の教育への影響」と題して、市の照会に回答している。三村は、当局の非常緊縮主義により、消極的勤倹主義におちいりがちであること、就学・出席に変化はなかったが、学級数削減のため「研究的」に新一年生を八〇人以上で編制しており、「少数の劣等生」にまで手がまわらないこと、経費の削減により「生徒給与品費を削った」ため、習字用紙・筆が一括購入できなくなり、「不便と不経済」が生じていること、さらに書籍費・修繕費が減少したことも「惜しむべきこと」と述べており、教育費削減に苦慮していたことがうかがわれる。