明治三十一年(一八九八)十一月、私立旭幼稚園が、カナダ婦人ミッションによって設立された。園舎は、現在の長野県町教会で、最初の園児は七人であった。
それ以前、現長野市域には明治二十三年十月に開設された長野県尋常師範学校附属小学校幼稚園があった。これは、「女子教生練習ノタメ」創設された初めての県立幼稚園であったが、二十七年県会の決議によって廃止された。しかし、幼稚園に理解を示す人びとが上層市民のなかには存在していた。また、この附属幼稚園のほかにも、婦人宣教師らが伝道の手がかりにするために開いたフリーキンダーガーデン(無料幼稚園)が田町と西長野にあった。
カナダ婦人ミッションは、明治十五年から日本での布教活動を始めていたが、日本メソジスト教会の要請を受けて、三十年からイサベラ・ハーグレーブらを長野市に常駐させ、長野地区に英和女学校を設立しようと英和女塾を設けた。しかし、思うように生徒が集まらず、女学校の設立は難事業とみられた。そこで、ハーグレーブは、長野裁判所判事夫人で、メソジスト教会信者でもあった千葉綾子の強い勧めもあって、幼稚園の設立に方向を転換し、旭幼稚園を設立したのである。設立当初は、幼稚園教師の資格をもつものがおらず、宣教師の下で、女塾の教師三人のうちの一人が幼稚園教師として補助的な役割を果たした。
旭幼稚園は、その後条約改正にともない外国人経営の私立学校への統制が強化されるきびしい情勢のなかで、行政指導を受け、明治三十六年二月、県から正式に認可を得た。園長はローラワイグルで、三十二年英和女塾に赴任、その後休暇中に六ヵ月間トロント幼稚園師範学校で学んでいる。
旭幼稚園の保育の目的は「学令未満之幼児ヲ開誘シテ其身体ヲ健全ニシ其能力ヲ発揮シ善良ノ言行ニ習熟セシムル」ことであり、保育項目は「会集・修身話・庶物・手芸・唱歌・遊戯及植物栽培」であった。認可当時の幼児定員は六〇人で、それを三組編成とし、保母四人が保育にあたった。保育料は、一ヵ月三〇銭であった。明治期における卒園者数の変遷は表63のとおりで、園児数がしだいに増加したため、明治四十三年九月、長野県庁前の南長野字聖徳へ新築移転した。
明治三十九年六月、長野高等女学校内に、幼児保育所が篤志家の寄付によって開設された。長野高等女学校創立一〇年目のことであり、良妻賢母教育を目ざし、「良母を養生するには是非共児童を実地に取扱はしむる必要あり」とする、当時の校長渡辺敏の女学校創設当初からの懸案が実現をみたものであった。
保育所主任には、三十九年に女学校を退職した宮沢いく子が就き、同年女学校補習科を修了した安川ちか子(松代出身)が助手となった。四十年に『信毎』に掲載された主任宮沢いく子の談話によると、保育の実際は以下のようであった。①月謝ほか 入所時に設備費として金五〇銭以上を寄付し、月謝は五〇銭、助手の給料やおもちゃなどの費用にあてる。器具などはきわめて不足しているが、日用器具などは本校や寄宿舎の物を借用する。②保育場所 教室と食堂には、寄宿舎の理髪室と整容室を使用、遊び場は舎外、雨天時は本校と寄宿舎をつなぐ廊下。③生徒数 定数三〇人のところ開所時二二人、一ヵ月後三五人、現在(四十年三月)三八人、男子が女子の二倍、これまでは四歳一ヵ月以上としたが新年度からは三歳一ヵ月以上とし、生徒数を五〇人程度に増やして二組に分け交互に校舎内外を使う予定。④生徒のようす 最初はなかなか慣れなかったが、五、六日ですっかり慣れ、付き添いの必要がなくなった。五、六人のほか送られてくるものはなく、悪天候でも欠席は少ない。幼稚園の弊害は圧制して規律の下に束縛したり、好みもせぬ学科を強いて身体を悪くしたり精神を卑屈にすることにあるので、自発活動を大事にする。⑤時間 自発活動にしておくので生徒も教師も遊びの仕方に困るようなことはない。一月からは午後二時過ぎごろ終わり近所の女学生とともに帰る。⑥課業 談話、唱歌、遊戯、手技、食事、校外保育(週一回以上)。食事は一一時半から一時間、二四坪の畳のある部屋の中央にストーブを置き、これを囲んでかわるがわるお湯などをくませ互いに話したり教師が話したりする。大きな弁当を持ってきて、この時間を非常に楽しみにしている。⑦運動その他 遊戯などは実によくやり、一日中楽しく遊んでいる。校外教育では裏の山や往生地へ行ったり、紀念公園や加茂の宮などに行く。目にふれる物事について話すとよく聞いている。
明治四十三年七月、この保育所は、「設置者、長野市長鈴木小右衛門、名称、私立長野幼稚園」として私立幼稚園への変更認可願いを県当局へ提出した。しかし、女学校増築計画との関係もあって、認可はされなかった。