長野中学校の開校と長野高等女学校

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明治三十二年(一八九九)四月、長野県尋常中学校長野支校(本校松本)は独立して、県立長野中学校となった。その背景には、三十年から始まった支校の独立運動と、三十二年二月におこなわれた「中学校令」の改正があった。

 明治三十年十月、上水内郡長森田斐雄(あやお)は、「尋常中学校施設ニ関スル建議」を県に提出した。その趣旨は、現在の松本本校・三支校体制では、入学をしても卒業できないものがきわめて多いので、中学校の定員を増加すると同時に、三支校の三学年までしかないものを五学年まで置くというものであり、実質的には支校独立の建言であった。同様の建議は、下伊那郡からも出されている。県は、このような動きを受け、まず長野支校の独立を決定し、三十二年一月国の認可を得た。

 国は明治三十二年二月「中学校令」を改正すると同時に、「高等女学校令」、「実業学校令」を公布した。これによって、中等教育機関として、中学校・高等女学校・実業学校の三本立ての制度が確立し、これまで実業学校の性格をあわせもっていた中学校は、これを除いて純然たる中等普通教育機関となったのである。なかでも、中学校令の改正のねらいは、中学校の増設を積極的に推進することにあり、この改正を契機として、長野支校の独立をはじめ、県下各地の中学校が設立され、三十九年には県立八中学校制となった。

 独立当初の長野中学校の校地は、西長野(加茂神社北側)にあり、明治二十九年に上水内郡から県へ寄付されたものであった。寄付当時の敷地面積は、一五六七坪にすぎなかったが、以後三十年代から四十年代にかけて校地を拡充するとともに、校舎・講堂・寄宿舎・雨天体操場などが増築・整備されていった。

 独立当初の職員は、校長三好愛吉をはじめ教諭八人、総計一九人であった、初代校長の三好愛吉は、新潟県出身、帝国大学文科大学哲学科卒業後、京都真宗大学教授・組合立北蒲原(きたかんぱら)(新発田(しばた))尋常中学校長を歴任、県書記官森正隆の招請によって来任した。当時二八歳、開校式の訓辞で「新しい城は築かれた。諸子はこゝに籠城(ろうじよう)するのである。(中略)小さないたずらを恥ぢよ。大きないたずらは大に宜(よろ)し。諸子は安心して一言一行予に学び倣(なら)ふべきである」と述べ、学生の奮起(ふんき)をうながした。三好は、在任一年半足らずの三十三年八月に、仙台の第二高等学校教授に転じたが(のちに同校校長)、長野中学校の校風などに大きな影響をあたえたといわれる。三好校長をはじめとして、その他の教員もほとんどが二十代から三十代前半の他県出身者であり、帝国大学および高等師範学校卒業の青年教師が、校長ほか指導的立場で、中学校教育を推進した。

 教科内容は、明治三十四年三月制定の「県立中学校学則」により、修身・国語および漢文・英語・歴史・地理・数学・博物(一~三年)・物理および化学(四、五年)・法制および経済(五年)・図画(一~四年)・唱歌(一~三年)・体操で、週時数は一、二年が二八時間、三~五年が三〇時間であった。この学則が準拠している「中学校令施行規則」では、「教育ニ関スル勅語」を修身の中核にすえ、兵式体操を重視するなど、初代文部大臣森有礼(ありのり)のいわゆる国体主義教育の方向が強く打ちだされており、それを反映した教科内容となっている。

 三好校長の在任中で特筆すべきものにピアノの備えつけと音楽教育がある。一高在学中から舞楽に関心の深かった三好は、校歌として「皇御国(すめらみくに)」(花よりに明くる)と「海行かば」を選び、音楽教師に松代の宮嶋慎一郎を招いた。そしてピアノ(洋琴)を帰国する牧師(メソジスト長野教会)から譲りうけた。県がその購入費を支出しないため、一冬暖房を廃して燃料費をあてた。この経緯から後年、勉学のため寒苦に耐えた先輩を範とせよと後輩を励ます「神聖(しんせい)なるピアノ」となった。フランス製プレイエルで、いま(平成九年)弾奏できるよう修復されて金鵄(きんし)会館に保存されている。長野県下学校ピアノの第一号である。一年五ヵ月在任の三好校長の送別は、ピアノ独奏や唱歌でおこなわれている。

 また、学校行事としては、三大節のほか、修学旅行、発火演習・行軍、秋期大運動会などがあった。修学旅行は、長野支校時代の明治三十年五月にすでに、一年生小県方面三日間、二、三年生諏訪方面五日間の日程でおこなわれていたが、長野中学校となってからも継続しておこなわれた。三十二年には、一~三年生は三日間の日程で、それぞれ小諸・柏崎・高崎方面、五年生は五日間の日程で金沢方面へ旅行をしている。また、発火演習・行軍は、三十一年から年二回おこなわれている。明治四十年代には、学芸的行事として地理博物談話会や幻灯会、英語会などがおこなわれるようになった。

 長野中学校の生徒数は、明治三十二年の三七七人以後明治期は五〇〇人台で、支校時代の二倍強となっている。入学志願者は、高等小学校二~三年修了者と四年卒業者で、三ヵ年修了者、四ヵ年卒業者がもっとも多かった。したがって、入学者の年齢は不ぞろいで、三十七年でみると、最高一七歳九ヵ月、最低一二歳六ヵ月、平均一四歳(入学資格年齢一二歳)であった。志願者は、毎年二〇〇~三〇〇人で、競争率は約二倍であった。

 生徒の出身郡市は、明治三十四年では、長野市および上水内郡が二四三人で、全体の四五パーセントを占めているが、更級・埴科・上下高井・下水内など他郡の出身者、さらに他府県出身者も多い。このような傾向は、他の県立中学校にはみられず、県庁所在地の中学校としての特徴といえる。三十八年では、生徒全体の三八・五パーセントの約二百人が自宅から通学できず、そのうち、約九十人は寄宿生で、あとの一〇〇人余りは親戚知己宅から通学するか、下宿生・自炊生であった。

 学級数は、五学年各三学級、計一五学級で、一学級平均約四十人であるが、実際には上級に進むにつれて生徒数が減少し、三十四年には、一、二年四学級(約四十人)、三年は三学級、四、五年は二学級(五年は二四人)編制であった。これは、毎年約一割のものが落第するほか、経済上の理由や疾病、転学などによる半途退学者が多いためで、三十七年には八一人が半途退学している。


写真38 長野県立長野中学校の校門
(『長野高校八十年史』より)

 明治三十年代に、長野中学校をはじめとして県立中学校は整備充実されたが、入学試験は難関であり、正規の入学資格である高等小学校二年修了だけで入学できるものは少なかった。しかも、その学資は通学生で一ヵ月に四円五〇銭から五円、寄宿生で一〇円前後かかり、役人や地主などごく限られた富裕層のための教育機関であった。長野中学校第一回卒業生のその後の進路をみると、卒業総数五〇人のうち高等学校、官立専門学校等への進学者は二七人で、未定一四人を進学準備中のものとすれば、進学率はきわめて高いといえる。また、就職では小学校教員となるものが多かった。男子に必要な中等普通教育を目的とする中学校であったが、実質的には上級学校進学準備機関としての役割をもち、あわせて中堅的な職業人を養成したのである。

 女子中等教育の端緒として、明治二十九年四月に設立された長野町立高等女学校(三十年から市立)は、三十二年制定の「高等女学校令」を受けて、三十三年四月県立代用校となり、四十二年には県立長野高等女学校となる。その間、三十五年四月には、それまで借用していた城山の長野高等小学校校地から、箱清水(現長野西高等学校所在地)に新築移転し、三十年代に雨天体操場・校舎・寄宿舎なども増築、整備された。


写真39 長野高等女学校校舎
(『思い出のアルバム長野』より)

 県立代用となった長野高等女学校の学課には、修身・国語・歴史・数学等を教授する高等普通科と、裁縫を主とする技芸専修科があり、それぞれに補習科が置かれた。明治三十六年段階の授業料は、一ヵ月五〇~七〇銭であった。学校行事としては、三十九年には、春期遠足(千曲川船遊び)、小学校高等科女生徒との連合庭球会、富士登山、戸隠登山、諏訪旅行(二泊)、秋期遠足会(地震滝・野尻・松代)などがおこなわれている。このうち、戸隠登山は三十五年に始まり、筒袖(つつそで)の着物に袴(はかま)、わらじ、白鉢巻きという服装で、四年生全員が参加した。戸隠山は江戸時代は女人禁制で、明治期に入ってからも女子の登山はまれであり、険路もあって反対意見が多かった。桍の着用を奨励、体育を重視した初代校長渡辺敏によって始められたものであるが、学校行事として登山をとりいれたことは、画期的なことであった。

 高等女学校への入学資格は、高等小学科二学年修了であった。入学試験は中学校に比べきわめて容易であったとみられる。明治三十六年の郡市別卒業生をみると、本科生総計一二三人のうち三八パーセントにあたる四七人が長野市、上水内郡からは一七人、その他の郡から数人ずつとなっている。また、他府県出身者は一二人で、長野中学校同様、県庁所在地の学校としての特徴を示している。いっぽう、専修科は二一人のほとんどが長野市および上水内郡の出身者である。

 卒業生のその後の進路について長野県全体の動向をみると、明治三十六年には高等女学校卒業総数一八三人のうち、女子高等教育機関に進学したものは八人にすぎず、もっとも多いのは当該校専修科への進学で六六人にのぼる。ついで、家庭に入ったもの六二人となっている。また、学校教員になったものが四〇人おり、同年の中学校・実業学校と比べてもきわだって多い。

 高等女学校も中学校同様に社会的・経済的な制約があり、限られた階層のための教育機関としての性格が強かったが、高い教養を身につけた女性が家庭に入り、また教員等の職場に進出して、女子の社会的地位を高める端緒となった。