明治二十三年(一八九〇)の「小学校令」は、小学校において実業教育もほどこす制度として、専修科、補習科を付設し、徒弟学校、実業補習学校を小学校の種類として設置できることとした。専修科は高等小学校に併置し、農・工・商科のうち一科または数科を置くこととして実生活との関係を考慮した編成ができるようにした。
この時期に補習科の授業を実施したものとして、長野尋常小学校について明治二十五年十一月二十一日の『信毎』は、「長野町補習夜学科新設」の記事を掲載している。それによれば長野尋常小学校は、南長野分教場を仮教場として、十一月から授業を開始。入学資格は小学校高等科に就学できないもので、年齢一〇歳以上一五歳以下、授業時間は午後七時から九時まで、修業期間は十一月より翌年四月まで六ヵ月間である。学科は修身・読書・作文・算術・習字の五科目、町田清太郎・今井彦太郎・臼井常吉の三教員が指導にあたり、監督者は長野尋常高等小学校長渡辺敏で、当面「授業料及其他の費用は一切徴収せず」としている。
明治三十三年段階において、現長野市域の尋常小学校で補習科を設置したのは上水内郡の大豆島・柳原・浅川・芋井・七二会・小田切、更級郡では更府であった。高等小学校では更級郡の塩崎、埴科郡の松代、上水内郡の長沼・芋井であった。
長野高等小学校に補習科一学級が置かれたのは、明治三十一年四月十五日である。生徒数は男子二〇人で修業年限は一年であった。教場は皇典研究所(現在の城山小学校校庭南側)の二階であった。教科は商業学校設立の基礎をつくるねらいからか商用簿記・商業地理・英語の三教科を重視し、これらの三教科の時間が毎週教授時間の半数を占めていた。授業料は一ヵ月三〇銭であった。専門教科は高等女学校の教師が兼任した。やがてこの補習科は、明治三十四年九月に長野市立甲種商業学校が設立されてその必要性がなくなり、同年十二月に廃止された。
日清戦争後、女子教育振興のために、県は「各小学校ニ適宜裁縫専修科ヲ附設シ(中略)尋常小学校卒業若(もし)クハ学齢外ノ女子ヲ入学セシメ」(明治三十一年三月四日告諭第一号)るよう布達した。明治三十一年に設置した上水内郡笹平・五十平(いかだいら)尋常小学校の裁縫専修科は四年制で、修身・裁縫(衣服・袴・羽織の裁ち方・縫い方)の課程をもち、三十二年に設置された同郡柳原尋常小学校の専修科は、修業年限二年の通年制の本科と、修業年限四年で季節制の別科からなり、その課程は修身・家事(日用必須の事項)・裁縫(運針法、通常衣服の裁ち方・縫い方)であった。
明治二十六年十一月、政府は実業教育振興のために「実業補習学校規定」を公布した。実業補習学校の入学資格は尋常小学校卒業程度以上で、教科目は修身・読書・習字・算術および実業に関する科目とし、修業年限は三年以内で、これを小学校に付設し、夜間の授業を認めた。実業補習学校は初等教育の補習機関であるとともに、生徒が従事する実業についての知識技能を授けることを目的としていた。
実業補習学校の設立は、全国的に明治二十年代にはあまり進まなかったが、長野県では三十二年に私立一校、三十三年町村立六校がはじめて創設された。その六校のうち、上水内郡浅川村では農業補習学校の設立を村会で議決し、三十三年十月に知事に稟請(りんせい)し、同年十一月に認可された(これよりさき同村では明治二十八年半額村費、半額私費で、十一月から三月までの間青年男女に講座を開設し、これを明倫館と呼んでいた)。設立の理由を「本村ハ農業ヲ以テ成立セルモ偏僻(へんぺき)ノ村落ナルニ依リ、農事上改良・進歩等ニ就テハ常ニ社会ノ進運ニ伴ハズ」とし、目的を改良発達のための知識・技能の伝授と、指導者の育成に置いた。そして、教場を尋常小学校の本校(西条地区)と分教場(北郷地区)に置き、教授は小学校教員が兼務した。高等小学校卒業生を入学させ、三年課程とし、男子部は二学級六〇人で、夜学を十一月十六日から三月三十一日まで、女子部は二学級四〇人で、昼学を十二月一日から三月三十一日までとした。学科は修身・読書・習字・算術・裁縫(女子)で、予算は九七円五〇銭であった。歳入は一人一ヵ月五〇銭の授業料と浅川村明倫館からの寄付金でまかなわれていた。浅川農業補習学校の教科課程表は表64のようであった。
そのほか長野市域では、明治三十四年二月に更級郡塩崎村ほか三ヵ村の篠ノ井農業補習学校が設立された。これは定員が八〇人、修業年限二ヵ年で、男子を対象とし、教科は修身・読書・習字・算術・体操・実業で、実業科の内容は農業大意・農業法制・実習であった。
なお、異色のものとして上水内郡若槻補習学校がある。明治三十四年五月に創立され、修学年限二年の女子対象の補習学校で、入学資格は尋常小学校卒業者、履修科目は修身・裁縫・家事・機業染色であった。当時、柴崎虎五郎と保科百助の主唱で、農村の副業として奨励された機業染色の科目が設けられており、生糸の生産地としての地域産業を反映したものであった。
実業補習学校の設立は、長野県下においても明治三十二年から始まり、三十年代末にはほぼ全域に普及した。現長野市域の、明治三十七年段階の普及状況を設立校数でみると、上水内郡が二二校、更級郡が五校、埴科郡が一二校であった。長野市は商業学校、工業学校の設立をみたのでとくに設立はなかった(「長野県学事統計」)。