明治三十二年(一八九九)二月七日「実業学校令」が公布された。同令によると、実業学校の修業年限は三ヵ年を本体とし、入学資格は高等小学校四ヵ年を卒業した一四歳以上のものとした。実業学校の種類は、工業学校、農業学校、商業学校、商船学校および実業補習学校の五種であった。その前年三十一年に長野市長は、実業学校設立の議を市議会に提案した。議会はこれをいれて、三十二年度に実業教育視察費を計上し、渡辺敏、水品平右衛門の二人を視察員に選任した。二人はその年の十月、東京、静岡、名古屋、仙台など各地の実業教育を視察し、甲種商業学校と乙種工業学校を設立することが急務であると報告した。市会はこの報告を承認、三十三年度に右両実業学校を設立することに決し、予算四〇〇〇万円を計上した。
設立準備事務扱いに宮入亀太郎、設立準備委員に竹内治平を任命、文部省に設立認可を出願し、生徒募集の広告を出して四月から開校の予定で準備を進めた。文部省へ提出した設立の理由は、商業学校を設置するために設けた補習科が市民の理解を得て入学志願者が非常に増加し、補習科の組織では入学者の需要をみたすことができないためとしている。校名は、最初甲種として申請したが、諸条件からみて困難との見通しから乙種に変更した結果、明治三十三年五月三十一日、長野市立乙種商業学校の設立が認可された。
新設の商業学校は、長野中学校長三好愛吉が監督に委嘱され、同校教諭滋野恵音・関島兼太郎・藤田信幸の三人が嘱託となり、専任教師には竹内治平・宮入亀太郎が任命された。渡辺敏は後見人となって実質的なまとめ役となった。三十三年六月十一日、仮校舎の長野中学校で開校式があげられた。長野市長鈴木小右衛門、三好愛吉、渡辺敏および教員五人と生徒二〇人が出席し、鈴木の祝辞、渡辺の経過報告と今後の計画、生徒心得の話があった。
明治三十三年に定められた長野商業学校の最初の規則は二七条から成り、目的は商業に従事するものに必要な教育をほどこすとし、修業年限を三年とした。学年は四月一日から始まり、入学者の決定は、高等小学校二年を修業したものはその修業証書によって認定し、そのほかの志願者は試験をして入学の可否を決める。なお、高等小学校二年修業で志願するものが募集定員を超過したときは、試験によって選抜するとしている。一年間を三学期に分け、授業日数を約四十週とした。学科目等は商業従事者に必要な教養で表65のようであった。この課程表は乙種とはいえ、甲種程度の内容であった。
新設の長野商業学校の校舎として、市当局が予定したのは長野高等小学校の校舎であった。しかし、その校舎は移転予定であった長野高等女学校が使用しており、商業学校の開校時には新築工事のおくれから、商業学校は隣接の長野中学校校舎の一部を仮校舎とした。翌年の三月にいたり、中学校がその校舎全部を使用する必要が生じたので、やむをえず市内西後町の正法(しょうぼう)寺(現本願寺別院)庫裏(くり)の一部を月一〇円の家賃で借り受け、これを仮校舎として四月からここに移転した。運動場は約百二十メートルはなれた市立長野尋常小学校の校庭を利用した。
正法寺に移転後は、監督の三好愛吉はその任を解かれ山口康治が校長事務取扱となり、翌三十五年三月、本校最初の校長となった。校舎をはじめ施設設備が劣悪なうえ、商業教育に対する県民の理解が浅く、百方募集につとめたが志願者は定員に達せず、再募集するありさまであった。ちなみに明治三十四年度の生徒の出身地をみると、六六人中長野市出身者はたった一八人で、他は市外郡村の出身者であった。
山口校長は雑誌『信濃教育』に二つの論文、「商業教育の普及」(明治三十四年六月一七二号)と「実業教育並に本県に於ける商業学校」(同年十月一八一号)を発表し、商業教育の重要性を強調し、さらに進んで乙種商業学校を甲種に昇格させることの必要性を訴えた。当時、文部省視学官中川謙治郎が長野商業学校を視察し、時間割を見て、「乙種でありながら甲種程度の教科目を教授するのは不都合ではないか」と質問した。県の横田書記官から市長に、その理由を上申するよう通達した。市長は学校設立のさい、甲種程度を目標にしており、乙種として認可されたのちも変更しなかったのは、本年中にも甲種に昇格することを見込んだからである。また、入学者はすべて高等小学校卒業以上の学力があり、甲種の学科を授けるのが適当だという理由を知事に上申した。
校長や市当局の関係方面への働きかけの結果、明治三十四年九月、「長野市立甲種商業学校」と改称することが認可された。従来三年だった修業年限が、本科三年・予科一年の制度にあらためられた。入学資格は予科が当時の高等小学校三年修了程度、本科一年は高等科四年卒業程度となった。
いっぽう校舎は、明治三十五年四月一日、正法寺から城山の長野高等小学校内、元長野高等女学校跡へ移った(長野高女は明治二十九年創立以来ここを使用し、新校舎が現在地-箱清水現長野西高等学校-に完成しそこへ移転した)。講堂を仕切って教場にあて、階段の南側にある上下の二室を校長室と職員室とした。中庭にテニスコートを設け、運動場は小学校と共同で使用した。
明治三十六年二月十八日、かねてから願い出ていた規則改正の件が認可され、従来の予科を廃し、本科を一年延長して四学年とし、第二学年入学者の程度を高等小学校四学年修了程度として実施に移した。小学校は尋常科四年、高等科四年の課程であったから、「高小三年修+予科一年+本科三年」だったのを「高小三年修」は本科一年へ、「高小四年卒」は本科二年へ編入することとなった。明治四十年四月に予科二年、本科三年の制に改編された。
明治四十年三月、南長野(妻科上野原)に木造二階建て一棟の新校舎が竣工し、城山の仮校舎からここに移転した。