中野塾と北信英語義塾

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中学校・高等女学校・実業学校のほか、これら諸学校令によらない私立の中等教育機関があった。いわゆる私塾・私立学校で、「各種学校」として地方長官から認可されて設立し、明治三十二年(一八九九)八月「私立学校令」が制定されてからは、その規制を受けるものであった。明治三十年代に長野市域にあった私塾・私立学校のうち判明しているものをまとめたのが、表66である。これによると、この時期の私塾・私立学校は、師範学校・中学校・商業学校等の予備校あるいは小学校教員試験検定受験者のための準備学校、英語学校的なもの、中学校に近いもの、技能習熟を目的とするもの、仏教関係学校などに分けられる。


表66 長野市内の私塾・私立学校(明治30年代)

 中野塾は、長野市東町の武井小路にあり、明治十九年の開塾以来昭和四年(一九二九)三月に閉塾するまで、四三年間中等教育の予備校の役割をになった。創設者の中野保は、舞鶴藩士族で、祖先は善光寺伊勢町の竹内氏であった。東京師範学校卒業後来県し、講習所・師範学校・県中学校の一等助教諭等を歴任し、県立中学校の松本移転を契機に辞職し、中野塾を開設した。中野塾とみられる「私立学校設立伺」によると、中学校・師範学校の志願者を対象とし、教員六人・生徒六〇人、教員は長野県中学校教諭が兼務するとしている。塾には普通科と専修科を置き、普通科は一年で、始業は午後四時以降毎週一五時間、また専修科は毎週三時間としている。三十八年には、普通科のみ一年を二期に分け、算術・漢文・国語・理科・歴史・地理・教育の授業をおこなっている。塾生は、一六歳から二〇歳まで男六六人、女二〇人で、寄宿生は一五人であった。なお、三十一年には、塾生八〇人の約半数にあたる四九人が師範学校に入学している。

 保科百助が明治三十六年十一月に開設した保科速成中学(保科塾)は、私立の中等教育を目的とし、国語・漢文・英語・数学を中心に朝鮮語を加えて教授した。また、日曜日には、課外講義として地理・簿記等を教授したほか、中学校・商業学校入学試験予備科も適宜設けられた。学年は二学年編制で、三十八年には一学年五二人、二学年九人、別科生を加えると八〇から九〇人の塾生がいた。本科生の月謝は五〇銭であったが、開設当初は月謝五銭以上としたり、あひるを飼育して維持費にあてることをもくろんだり、特色ある維持運営がはかられた。

 北信英語義塾は、英語の教授・普及発展を目的として、明治三十一年立川雲平によって、花咲町に開設された。普通科三学年、高等科二学年が置かれ、英語読本の音読・訳読、会話、文法などの授業がおこなわれた。束脩(そくしゅう)(入学金)は五〇銭、月謝は四〇銭から七〇銭であった。三十九年九月からは、教授内容を拡充し、英語のほかにドイツ語・清(中国)語・ラテン語なども教授するようになった。三十七年設立の長野イングリッシュ倶楽部の組織編制も、北信英語義塾とほぼ同じであった。また、同年設立の俣野英語教授所は、学年、学級を組織せず、午前六時から午後八時までのあいだにいつでも教授を受けることができ、塾的な性格が強かった。三十八年の塾生は六一人で、その内訳は、師範生一三人、中学生一六人、商業学校生四人、小学校教員六人、市内二塾の塾生九人、鉄道員六人、小学生六人、高等女学校生一人だった。

 明治二十九年に設立、三十五年に学校組織となった信濃裁縫学校は、裁縫教授を目的として、普通科(一年)、高等科(六ヵ月)が置かれた。教授は、午前八時から週二八時間以上で、裁縫のほか修身・家事・算術各二時間、国語三時間、作法・挿花各一時間がおこなわれた。また、ときには小学校教員や師範学校教員を招請して講話もおこなっている。三十八年には、一六歳から二〇歳まで、四八人の塾生がいた。