婦人会など成人女性の組織は、明治二十一年(一八八八)結成の松代婦人協会の例にみるように、明治二十年代から組織されはじめるが、三十年代に入ると、各地でますます盛んに設立されていった。
長野町には、市制施行の前年、明治二十九年五月に、市内の女教員を中心に長野婦人懇話会が組織された。ついで、市制施行後の三十二年六月には、官吏や市内有力者の婦人や娘などを会員とする長野慈善会が創立された。これらの婦人団体の活動をみると、長野婦人懇話会が三十三年五月に開いた催しは、長野学校を会場に百余人が出席し、数人の講話を聴いたのち、遊戯の余興をするという内容であった。同年六月に開かれた長野慈善会では、城山(じょうざん)館を会場に、山路弥吉(愛山)の演説、数曲の音楽演奏ののち、会員が作った編み物などが販売された。長野市で活動していたこの二つの婦人団体は三十三年十月には合併され、長野婦人会となった。発会式には押川則吉長野県知事、深井弘師範校長、渡辺敏高等女学校長が来賓として招かれ演説をおこなっている。発会時の会長は県知事夫人押川愛子、会員三二四人であった。発会式の午後に催された慈善会には音楽や謡があり、市民二千余人がつめかけている。長野婦人会は、「婦人の知識を進め品格を高め慈善事業をなし社会の風俗を改良する」ことを目的にして、隔月に開会された。同会が三十五年に城山館で開いた慈善市(いち)は、二千人近い入場者を集め、大広間を九商店の陳列場にあて、煎茶室(せんちゃしつ)・抹茶室(まっちゃしつ)を設け、琴の演奏、義太夫の余興があり、さらに裏庭には果物・団子・お茶などのコーナーがつくられるという大規模なものであった。
他方、松代婦人協会も明治三十年代には横田亀代会頭の自宅を会場に毎回一〇〇人程度の出席をみて定期的に開かれている。三十五年四月に開いた発会十五周年記念会には百六十余人が参加し、奏琴のほか、特別賛助員である八木上田女子小学校長の演説「現時における日本女子の心得」、山口勇雄の祝辞、色部祐二郎の祝歌の朗詠などで盛大に催された。同会の夜開催される通常会は「婦人の心得」「グッース国民の盛衰について」「将来の婦人の注意すべき件」「妙齢の女子について」「自制ということ」などの題目で一回に数人の講話・演説を聴き、茶話会をもつことが多く、修養団体的な色彩が濃かった。
松代町では製糸工場内にも婦人会が設けられた。六工社婦人会は明治三十六年に発会、この動きは他の工場にもおよんだ。白鳥館合資会社内に設けられた白鳥館婦人会の第二二回総会には、三百余人が出席した。松代高等小学校から二教員、松代警察分署長、法泉寺住職、愛国婦人会松代の幹事・松代婦人会幹事、六工社婦人会員らを来賓として招き、品行方正で業務に勤勉な会員に賞状や賞杯を授与したあと、教育、修身、肺結核病の予防、職務奨励などに関する講話、教育画・風景画などの幻灯があった。
このほか、大豆島婦人会、古里婦人会、更級郡中津婦人会、若槻村連合婦人会などがあいついで創立され、小学校などを会場に講話、演説、奏楽、茶話会などの例会を開き活動していた。
いっぽう、明治三十四年には軍人援護などを目的に、婦人の全国的組織として愛国婦人会が結成され、愛国婦人会長野県支部も設立された。長野県支部は、押川県知事夫人が幹事長、幹事二七人、会員はわずか六人で発足したが、知事の各郡長あて幹事推薦の依頼、幹事による会員募集などによって会員数を増加させていった(表67)。愛国婦人会は、日露戦争を契機に活動も大幅に拡大していく。出征軍人の送迎、接待、出征軍人家族・傷病兵・戦病死者遺族への慰問、軍人用衣類の縫製・寄付、軍人遺族の救護など戦時救護活動に取り組んだ。各地の婦人会員が、愛国婦人会員を兼ねていることが多く、日露戦争時には地域の婦人会も銃後活動を展開していくこととなった。長野婦人会は、日露開戦とともにそれまでの慈善事業をやめ、銃後の救護活動を全面的に展開し、愛国婦人会と共同で慰問・茶菓接待などをおこなった。銃後の活動は婦人団体だけでなく、兵役優待会、軍人同志会、尚武会、恤兵(じゅっぺい)会、青年会、同窓会などと協力して取り組まれ、市町村単位のこれら諸団体とともに、婦人会も日露戦争後の地方改良運動のにない手と目されるようになったのである。