青年会の成立と活動

791 ~ 797

明治十年代に入ると江戸時代以来の青年集団である若者組、若連中、若衆組などとは別に、青年会などの名称で、新しい時代に対応した青年組織があらわれてくる。現長野市域でも、明治十年に若槻村の朋友社、十三年に真島村の共学舎、清野村の清野村青年会、十四年に七二会村の岩草青年会、十五年に豊栄村の乙組協心会、十八年に更府村の下平青年会、塩崎村の長谷倶楽部、十九年に青木島村の丹波島談話会、松代青年会郷里部などが生まれている。

 長谷倶楽部は、民権論を支持する有志五人が、明治十八年に演説会を開いたことを契機に創立され、冬期は倶楽部員の家で輪番に学術研究会を催していた。二十年には部員が二八人となり、長谷学校を会場とする冬期の夜学を始め、翌年からは長谷・越(こし)の区からの補助金も得て、二十二年から小学校教師による指導へと地域で認められる団体になっていった。同倶楽部は、やがて夜学や演説会の開催のほか、国会新聞の購読、農事研究、講演会、作文集の回覧、村長から国会議員にいたるまでの各種選挙運動もおこなった(『塩崎村史』)。

 新しい青年の組織づくりと学習への志向は、明治十九年に在京青年の郷里部として結成された松代青年会郷里部の活動にもあらわれている。同会は竜泉寺を会場に毎月通常会を開くこととし、運動会、演説会、幻灯会、学術演説会などを盛んに催した。十九年におこなわれた運動会には、砲丸投げ、長飛び、棒飛び、高飛び、障害物飛び越え、綱引き、一脚飛び、二人三脚、相撲競争、旗奪いなどの新旧の種目が取り入れられている。同会は二十年十月から冬期の夜学会を開き、数学科・漢学科・英語科の三科を設け、松代小学校訓導三人がその教授にあたった。松代地区には、三十四年新たに有志者によって庚子学会が創立されるが、その趣意書は、「世界列強と比肩」するとき、国民の科学知識の欠乏が問題であるとし、「農工商」の振興のためにも、それら実業に従事している青年たちが、「進歩せる学術を研究し、応用し」ていくことが急務であると、うたっている。庚子学会は翌三十五年には松代青年会と合同するが、趣意書には、このころの青年たちの夜学会開催への社会的期待が反映されている。また、松代青年会では体育が奨励され、三十四年以来、水泳の講習会を実施し、「県下の模範」とされた(『松代町史』『信毎』)。


写真43 松代青年会郷里部の水泳練習
(「松代附近名勝図会」より)

 このように、従来の若者組などが、共同体の一員としての青年の相互形成の場として機能し、かつ祭典・防犯・防災などの役割をになって活動していたのに対し、別の主旨と新しい活動を取り入れた青年組織が、その後明治二十年代から四十年代にかけて各地に成立してくることとなった。これら青年会は、地域では従来の若衆・若者組と並立、競合、対立しながら、前述の長谷倶楽部が四十五年に長谷若者組と合併して長谷青年会を発足させているように、大正期にかけて統一されていく。

 この時期の青年会の目的や事業には、自己修養や学術の研究、風俗の矯正、実業の振興のほか、地区によっては除雪・道路補修などの公共的事業、共同理髪、製炭、農作物栽培などの共同作業などがみられ、日露戦争後は、軍人優待や恤兵(じゅっぺい)事業なども出てくる。青年組織の名称も、青年会だけではなく、前述のような倶楽部、川合新田村の学術温習会(明治二十一年)、小田切村の学術研究会(明治二十七年)のように学術の文字を冠するもの、朝陽村の北屋島矯風会(きょうふうかい)(明治三十四年)、小田切矯風会(明治三十五年)など矯風会と称するもの、古牧青年農会(明治三十三年)、大豆島青年農会(同年)など青年農会と名づけるものなど、さまざまであった。

 なお、明治二十年代から小学校同窓会の創設もみられた。比較的早い時期に設けられた松代同窓会は明治二十三年に改定した会則で、同会は「弊風(へいふう)を矯(た)め学術を研究する」目的の、好学有志者の団体であるとし、会場を松代青年会にしており、青年会と関係しながら成立したものと思われる。

 明治二十七年に発会した神郷小学校同窓会は、校長が創立を推し進め、会の顧問総理となり、神郷小学校で発会式をあげた。同会は会則に「専ら教育勅語の御主趣を奉戴し、同窓の友相結合して各自交情を厚くし、以て本村教育勧業の普及改進を図り併せて智識を交換するを以て目的」とすると定め、総会、会報発行、慶弔(けいちょう)、義捐金(ぎえんきん)、実業補習学校生徒の監督などの事業をしていた(『上水内郡校長会調査郡内教育優良事項調査』明治四十一年)。同窓会報は、沢柳政太郎など、学界・教育界・言論界の名士の寄稿を載せ、充実した同窓会文庫や夜学会などで、県から同窓会が表彰されている。

 同窓会は、明治三十年代に入って普及し、明治末年までにほとんどの小学校に設立されている。古牧・三輪・芋井・浅川の各村のように、男子とは別に女子同窓会を設けるところもあった。同窓会もまた、学校に本拠を置く卒業した青年たちの組織であった。

 日清・日露戦争を通して、殖産興業の国家的要請が強まり、地方実業の振興が期待された。『長野県教育事蹟一班』で取り上げられた古牧青年農会が掲げる目的は、つぎのように農会などほかの団体と連携しつつ、農業の振興をはかろうとする内容となっている。

①会員互に知識を交換すること、②徳義を重んじ風紀の振粛を図ること、③農事談話会を開くこと、④農産物品評会・種苗交換会・競技会を開くこと、⑤農業上の試験をなすこと、⑥肥料の共同購入をなすこと、⑦勤勉・貯蓄を励行すること、⑧鳥虫病害の駆除予防に努むること、⑨蚕業の改良を図ること、⑩上級農会の報告及び農家に関する令達を会員に周知せしむること、⑪農家副業の発達を図ること、⑫他の農事団体と気脈を通じ便宜に依り連合して事に当ること。

 そして実際に、会報発行、実業に関する雑誌の購入・回覧、各種農事試験、品評会、馬耕の普及、稚蚕共同飼育、講習会および講話会、農事視察、風紀の改善などの事業を実施している。

 長野県学務課が、明治四十四年末におこなった「青年団体に関する調」などによると、青年会には従来の若者組、若連を発展的に改組した小区単位のものや、有志によるものと、町村制施行後の新町村単位のものとが列記されているが、明治三十年代には小区単位の青年会が多い。また、設立年をみると、同三十年代をピークに、十年代から四十年代にかけて創立されている(表68)。会員の年齢範囲をみると、大半が一五歳から三十歳代にかけて構成されていたが、四十歳代までふくめる青年会も少なくない。会の資産として、基本金のほか桑園などの畑や田、図書などを備え、会費、寄付金で運営され、夜学会などに村の補助金が出ることもあった。吉田青年会の場合、六六〇円の基本金のほか、会の事業として村内に三〇〇本以上の植林をして会の維持にあてた(『長野県教育事蹟一班』)。豊栄村でも明治二十五年創立の豊陽館という青年団体が冬期夜学会を開催していたが、学資金を得るために学田や桑園を設け、農家の休業日を利用して会員が耕作し、桑の売却代金を学資にあてている(『とよさか誌』)。


表68 青年会の成立状況(現長野市域分)

 なお、明治二十三年には、その規約に、「非政社的団体にして自由主義を抱持せる青年の結合」とうたう信濃青年自由倶楽部の本部事務所が長野町に置かれた。同倶楽部は全県的組織で各郡に支部を置くこととなっていた(『信毎』)。町村をこえたこのような広域にわたる青年組織として、三十五年三月には埴科郡下の清野村・寺尾村・松代町ほか五ヵ村から会員二八〇人を募(つの)り、埴科青年会が発足している。屋代でおこなわれた発会式には一〇〇人が参集し、信濃毎日新聞主筆山路愛山、長野日日新聞主筆久津見蕨村(けっそん)、長野新聞記者山本聖峰の演説・祝辞のほか、若林忠之助、瀧沢志郎、竹内定馬ら関係者の演説がおこなわれた(『信毎』)。

 夜学会開催は、青年会などの主要事業として取り組まれることが多かったが、明治二十六年に文部省が出した「実業補習学校規程」以降、学校教育の一端として制度化していく。ことに、三十五年の実業補習学校令改正によって、簡単に設置できるようになると、各小学校に併設されていった。このような動向のなかで上水内郡は、三十四年各町村長および小学校長あてに、夜学会に関して通牒(つうちょう)を発している。通牒は、従来の夜学会をなるべく実業補習学校組織にあらため、なおも土地の状況により転換が不可能な場合は、改良を加えるようにとし、十分の監督をなし、相当の補助をし、教科を修身・国語・算術および実業に関する学科とするなど、開設時期、授業時数、教科、教員などにわたって指示しており、青年の自主的な学術研究として始まった夜学会も、公的学校教育に組みこまれていくことになった。豊栄村にあった豊陽館の夜学会も、三十四年に豊栄農業補習学校が設立されると廃止され、組織を変更し三十六年には関屋同志倶楽部と改名し、目的を「和衷(わちゆう)協力を本旨とし、本村及び本組に関する公共問題を研究」することと変えている。

 日露戦争下では、青年会も、応召者の送別会や戦地・留守家庭への慰問状送付、労力扶助、帰還者の歓迎会など、銃後の活動を進めている(『長野県時局史』)。政府は日露戦争後の戦後経営・地方改良政策のなかで、青年団を通俗教育団体として官制化をはかっていく。県は、明治三十九年には「青年会設置ニ関スル注意事項」を出し、さらに郡役所分、町村役場分、小学校分の「注意事項」を送付し、青年会の「改善整理」と設置の普及をはかるよう通牒(つうちょう)を出した。それは、青年会の性質、事業、組織、経費および維持法をこまかく規定したものであった。青年会は「学校教育を継承して修身処世の要道を研究」し、「戦後国運の大いに発展せる今日にありてはこれに適応する道を探求」することを目的とすると定めている。また、会長ほか役員は、識見を有し、模範的な言動をとる人物が適任で、学校教員・官公吏・在郷軍人などの学徳に秀でたものを名誉会員とし、指導を受けるよう指示し、さらに、組織を漸次町村ごとに統一連合させ、郡・県の連絡をはかることとし、各段階の青年団の整理統一をうながすものであった。これにより、青年会の組織化が進み、青年会への補助政策も強化されていく。

 こうして郡市連合青年会が、明治四十一年に埴科郡、四十四年に更級郡、大正四年(一九一五)に上水内郡、八年に長野市とつぎつぎに結成されていった。