明治二十三年(一八九〇)七月の信濃教育会総集会の席上、会員上水内郡芹田(せりた)尋常小学校長浅香徳忠は、「信濃教育会ニ書籍館(しょじゃくかん)ヲ創立スルノ件」を建議したが時期尚早ということで否決された。その後、同年十一月、県会が県立物産陳列場の廃止を決議したのを受けて、浅香と渡辺敏らは長野公園内にあった同陳列場の建物を利用して、これを信濃教育会博物館および書籍館とするよう信濃教育会に建議した。その結果、県からの払い下げの方式や維持管理責任のことまで同会で決議されたが、県はこの出願を却下したので書籍館の創立は実現できなかった。
いっぽう、信濃教育会には寄贈図書(教育学関係図書・教科用図書の見本など)が多いうえに、交換図書・雑誌も多数にのぼり、同会収蔵図書は拡大するばかりであった。そこで会員の有志、武井一郎・渡辺敏・与良(よら)熊太郎らは、明治二十五年六月二十四日それらの図書を信濃教育会から借用して長野表新道(若松町)の某家を借りうけ、「信濃教育会員図書縦覧所」を開設した。
同縦覧所の利用は信濃教育会員に限られていた。およそ一年間、日月火金土の週五日間開館し、利用した。しかし、縦覧所の責任者は約一年後の明治二十六年四月にいたって同所を引き払い、借用の書籍・雑誌全部を返還した。そこで信濃教育会は長野県師範学校前の西長野町二三四番地に図書室を置き、同会の雑誌編集人に管理させた。図書室設置により会員の利用をはかったが、当時利用者が少なく毎月二〇人以下という状況であった。その原因は図書の購入費が少なく、収蔵図書が貧弱であったためである。
また、長野県は全国的にみても図書館の施設については他府県におよばなかったので、信濃教育会は本格的な「信濃図書館」の設立の計画を進めその実現をはかった。明治三十六年五月の評議員会において決定した設立大綱は、つぎのようなものであった。
一 敷地は長野市内の適当な場所とし、場合によっては市役所で借入をすること。
二 倉庫はれんがづくりとすること。
三 この建物に付属して本会事務所・閲覧所をつくること。
四 費用は故森文部大臣奨学金を原資とすること。
明治三十六年八月、これを具体化するために、図書館創立事務員・図書館創立係員を嘱託として具体方針を決定した。建設費を五〇七一円二五銭として、全額県費支出を請願、敷地は長野市に寄付要請、そのほか同館の基本金を二万円として寄付金を募ること、などを実施に移すことにした。そして七八人の賛助員を全県下から人選して依頼した。長野市域からの賛助員は花岡次郎・西沢喜太郎・笠原十兵衛・水品平右衛門・小坂善之助・鈴木小右衛門らであった。同年九月、賛助員の氏名を連記して「信濃図書館設立趣意書」を県下に配布し、県民の協賛を求めた。その趣意書に図書館の設立の重要性を述べ、計画の概要を示して県民の協力を訴えた。建設資金のための寄付金の募集は順調で、三十六年末には申し込み累計金額は四千四百余円にのぼった。いっぽう、長野県会は一〇〇〇円の県費補助を議決したが、翌三十七年二月ロシアとの戦争が始まり事業は中止となった。
しかし、信濃教育会は建物購入の計画を進め、信濃山林会と共同で、三十七年五月長野市県町丙一五番地にある立憲政友会北信支部の建物(料亭多津美の場所)を購入して図書館開設にそなえた。日露戦争後の明治四十年三月、信濃教育会は図書館の設立事業の再開を決定。四月には新たに信濃図書館開始委員に土屋良遵(りょうじゅん)以下七人を委嘱し、創立委員の補充に保科百助を任命して開設の準備を進め、他県の状況視察・規則の制定・図書の収集および分類等をおこなった。
なかでも保科百助は、本業をなげうって熱中奔走、自ら手車をひいて寄贈図書の運搬にしたがった。そして同年六月十五日、開館式を迎えた。開館当時の状況は表69のようであった。
明治四十年十一月から図書貸し出しを開始し、翌四十一年十一月から夜間開館を始めた。四十三年度よりは松本市開智図書館に巡回文庫を置いて県下閲覧者の普及につとめた。開館年度の明治四十年の利用状況をみると、閲覧人員七四一八人・貸し付け図書数一万六八一八冊・開館日数一四三日・一日平均閲覧人数五一人であった。
そのほか、現長野市域において本格的図書館の設立をみたのは松代町であった。町立図書館は明治四十三年五月二十八日、文部大臣の認可を受け、松代農商学校の一部に設置された。
長野市で活動写真が初めて上映されたのは明治三十年七月八日、千歳座においてであった。上映を予告する新聞広告には「仏国(ふつこく)理学博士リミエル氏発明、各国皇帝陛下御縦覧(ごじゆうらん)勲章拝受す、電気作用活動大写真、此活動写真は電気の作用により種々の写真が一丈(三三〇センチメートル)余りもの大きさに写す、人や獣の走るもの飛ぶもの、市街の有様、汽車の発着等、すべて現物通り、自然に活動する最も珍しき機械にして是迄東京及横浜等の各劇場にて大評判を得たるものに付御来観の上御高評の程」希望すると書かれている。入場料は上等が三〇銭、中等が二〇銭、並等が八銭、一〇歳以下が五銭であった。楽隊(ちんどん屋)が市内に繰り出し宣伝につとめた。
参観人が多く満員の盛況で、楽団の前奏ののち開会したといい、つぎのような場面が映写された。『信毎』によりそれを要約すればつぎのようであった。
美人の踊 衣装を三回変えるなど実際の踊りを見るようでみごとであった。
騎兵の進軍 森林のなかから騎兵が隊列を組んで出てくるところ。白馬・軍馬がまじって首をふり、たてがみを動かすことも判然として実物が進行するようだ。ただその蹄声(ひずめのおと)が聞こえないのが残念である。そのふしぎさに満場の観客思わず拍手、かっさい。
パリの市街 突然に鉄道馬車そして美人、紳士、疾走するもの緩歩するもの千差万別。日本の銀座を目の前に見るようだ。
舞踏 「双々相携(そうそうあいたずさ)へ、両々相提(りようりようあいひつさ)け、旋転幾回(せんてんいくかい)なるを知らず」。
ロンドン停車場 「長蛇蜒蜿(ちようだえんえん)、漸く近く、漸く大、来って倫敦(ろんどん)に着す」。
リオンの市街 「繁華、雑踏、恰(あたか)も其地に至りて目撃するが如し」。
(下略)
最後に同新聞は「拍手を以て迎へられ、喝采(かつさい)を以て終われるものは実に活動写真なり」と評している。今まで幻灯(げんとう)の静止場面だけを見ていた市民は、動的な活動写真の場面に目をみはったのである。
千歳座ではその後、明治三十四年一月一日から八日までの八日間にわたって活動写真が上映された。内容はフランスのパリでの万国博覧会、北清戦争のようすなど。これも大好評で九日夜からは松代に巡回し、さらに十二日からは上田での上映が予定されていた。