幻灯(げんとう)は明治十年代から始まったが、二十年代から一般に利用された。画面は静止状態であっても、時間的拘束がなく、音声によって自由に説明できたので、民衆の啓蒙(けいもう)活動の手段として有効であった。映写の内容は社会教育の勧善徴悪(かんぜんちょうあく)ものから始まり、娯楽物・社会政策の実現のための啓発的なものなど、多岐(たき)にわたっていた。『信毎』の報道記事から現長野市域のものを抽出すると表70のようである。
教育の普及と進展をはかるために、明治二十四年(一八九一)ごろから、町村が幻灯機を備えるようになり、校長と村長の主唱のもとに義捐(ぎえん)金を募って幻灯機を購入し、毎年冬季に各地区を学校職員が巡回して指導した古牧村のような事例もあった。そのために古牧村は就学率が向上し、青年の気風も矯正(きょうせい)されたという。
明治二十五年十二月六、七日の両夜、日本メソジスト長野教会(長野県(あがた)町教会)は城山(じょうざん)館で伝導会をおこなった。席上、イビー宣教師は同人所有の幻灯器を使って、第一夜は「ナポレオン一世伝」を上映した。珍しい幻灯を見ようと一〇〇〇人からの人が集まった。翌七日の幻灯の内容は「シカゴ大博覧会ヨセフパピリオンの話」であった。この夜も大勢の人が集まった。しだいに上映写真のスライドが制作、販売されたのである。
幻灯機を購入して巡回上映を生業とする人があらわれた。南佐久郡北牧村(小海町)の篠原国三郎や上伊那郡宮田村の岸本与(あたえ)は、著名な幻灯師であった。かれらの足跡は長野県内にとどまらず、関東から東海地方にまでおよんでいる。
電気の光源を使う以前の幻灯機は大がかりなもので、また、貴重なものでもあったので、小学校にも全般にはこの器具の設備はなかった。岸本与は長野県の嘱託となり通俗教育普及員として県下を巡回し、また、信濃教育会の委託も受けて県内各地の学校を巡回した。上映したのは教育・衛生・海外発展・軍事思想等であった。明治二十七、八年の日清戦争のおりには、とくに前線将兵の恤兵(じゅっぺい)活動に関係する幻灯会が目だち、この啓発活動により、一夜に六円六〇銭余の寄付金が寄せられたこともあった。明治三十年代に入っては、衛生思想の普及のための啓蒙活動に幻灯が盛んに活用された。また、三輪村の農蚕集談会のように農事の振興のための指導にも利用された。
幻灯は、社会教育として大きな効果をあげたが、「日露戦争幻灯映画」の上映は、従軍記者の文章以上に民衆に大きな効果をあたえた。とくに岸本は幻灯のみならず話術も巧みで、幻灯と講演を併演している。長野県は幻灯が軍事思想の育成に有効であることを認め、明治三十九年には幻灯利用の機会の拡充をはかるように通達している。