明治十三年(一八八〇)九月に自由民権紙『信濃毎日新報』が創刊されると、諸報道紙の『長野日日新聞』は『信濃日報』と改称してこれと対抗した。両紙は競争で共倒れ状況となり、県会議員の小坂善之助・島津忠貞・森田斐雄らが『信濃日報』の経営を引き受け、合体して十四年四月から新聞名を『信濃毎日新聞』と改めた。高崎・横川間の鉄道は十八年十月に開業し、横川・軽井沢間の鉄道馬車は、十九年に長野中牛馬会社の中沢与左衛門が中心になって設立した碓氷(うすい)鉄道馬車会社が運行していた。
明治二十一年には直江津線が軽井沢まで開通し、今までの郵送にかわって列車を使って中央紙が長野県にも進出する状況になった。『信毎』は、紙面に長野町、松本町、上田町の記事を多くし、東京の情報を「東京電報」として掲載し、単なる地方紙を超える紙面作りをおこなった。定価の値下げも実施したので、販売部数がのびて莫大(ばくだい)な利益を収めた。
『信毎』の社主グループであった小坂善之助・島津忠貞らは、第一回総選挙に出馬するため、『信毎』の経営を離れた。そこで、明治二十三年に新たに『信毎』の発行会社「長野印刷会社」が資本金一万円で創設され、社長は岡本孝平、重役には藤井平五郎・岡村清三郎が選出された。二十六年には発行会社名を「信濃新聞社」と改めている。『信毎』の経営権は、三十一年に再び小坂善之助に移った。
『信毎』は、明治三十二年に山路愛山を主筆に迎えた。社主の小坂善之助が『国民新聞』の徳富蘇峰(そほう)に依頼した人選であった。愛山は三十二年から三十六年まで主筆をつとめた。愛山はメソジスト派の週刊新聞『護教』の副編集長(実質主筆)のかたわら、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者をつとめ、北村透谷と文学論を戦わし、また、荻生徂徠(おぎゅうそらい)論など歴史評論でも有名な人物であった。
長野市に住んだ愛山は青年会・婦人会の依頼にこたえ、県下各地に講演に出かけたが、その内容は『信毎』に掲載され、青年を鼓舞し、婦人運動に寄与した。彼は長野市の新聞界のリーダーとして活躍し、多くの刺激を長野市民の知識階級にあたえた。
明治三十二年にはまた、長野新聞株式会社が設立され『長野新聞』が発行された。この新聞は小坂善之助の政敵、更級(さらしな)同志会の人びとによって創刊された。創立時の社長は宮下一清であるが、六十三銀行の頭取飯島正治がそのあとをつぎ、ついで宮澤長治、小出八郎右衛門、山本慎平らが歴任した。更級政友会系列の資本により経営された政党機関誌で、小坂と対抗するため、主筆に茅原華山(かやはらかざん)を迎えて『信毎』と激烈な競争を繰りひろげ、三十五年春には販売部数が『信毎』を超えた。
さらに、『長野日日新聞』が、明治三十四年二月十六日、日刊紙として発刊された。この新聞は『長野月曜新聞』を改題し、保科百助・牛山雪鞋(せつあい)の発行していた『信濃評論』を併合して発足した。発行会社は長野市千歳町九番地の合資会社長野印刷会社であった。社長は弁護士の矢島浦太郎で、『信毎』の愛山・華山に対抗できる主筆として久津見蕨村を迎えた。しかし、激烈な販売競争に敗れ、三十七年に廃刊となり、その後は工場を岩石町に移して印刷所となった。
山路愛山の活動は『信毎』に対抗する各新聞社をふるい立たせ、各社は有能な気鋭の記者を集めたので、長野市の新聞界ははなやかな活動を展開した。明治三十五年四月に権堂の料亭富貴楼で、長野市内の新聞雑誌記者懇談会が開催されたが、出席者はつぎのとおりであった。
信濃毎日新聞 山路愛山、富田松北、水品平右衛門、束松露香(つかまつろこう)、結城律堂
長野新聞 茅原華山、山本聖峰、伝田芋村(うそん)、池田三松、高宮竹幹、駒村秀山
長野日日新聞 久津見蕨村、三好越南、柴崎如意、江戸静川、馬島破禅、小山田馨蓮(けいれん)
北信新聞 鎮月秋、香野正文
信濃教育 私元正親
信友雑誌 吉家千泉、市川治水
三ヵ月雑誌 宮澤春文
実業雑誌 中西鉄
平民文学 田中基馨(きけい)
信陽旭 宮崎光二
長野市の新聞雑誌の編集者が一堂に会した集会であり、二六人の出席者があった。
山路愛山が『信毎』に入社させた佐藤桜哉は、『信毎』在職中の明治三十九年から週刊『実業の信州』を発刊していたが、同年暮れに退社し、中野夢影とともに日刊『信州新聞』を発刊した。この新聞は中野夢影の権堂の艶物(つやもの)記事で名をあげたが、スポンサーもつき世間に好評でむかえられ、一種の風格があったという。改題して『信越新聞』とし、主筆は四十年から山路愛山がつとめ、山路は東京から原稿を送りつづけた。
明治三十五年に篠ノ井線が塩尻まで開通し、『信毎』と『長野新聞』の中信地方に対する販売合戦が熾烈(しれつ)となった。『信毎』記者束松露香は小林一茶の評伝を連載し、一茶研究の新分野を開いた。特派員三澤背山の「諏訪政党史」がまた紙面を飾った。中央線の開通は新聞に新しい発展をもたらした。
『長野新聞』の茅原華山は、山路愛山と同じく県下を講演旅行し、教師や農村青年に感銘をあたえ、新聞の声価を高めた。『長野新聞』は茅原華山主筆のあと、山本聖峰主筆、黒岩英治編集長で運営し、石版活版部を創設し、田中弥助が主幹となった。この活版部が後年大日本法令印刷株式会社となっていくものである。