皇太子の行啓

807 ~ 809

明治三十五年(一九〇二)五月二十日から皇太子殿下(大正天皇)が、信越東北地方に行啓されることになった。皇太子殿下奉迎の準備は三十五年四月から始まり、長野市は四月二十四日に準備委員会を開催し、二十八日からの市議会に原案を提出した。準備会での奉迎行事原案によると、到着と同時に祝砲を打ち上げ、翌日は県庁はじめ師範学校、中学校、長野小学校を巡視のおり、数百発の煙火(はなび)を打ち上げて迎えるというものであった。

 皇太子殿下の宿舎は大勧進と定められ、市内の巡視は明治天皇の巡幸のときに準じて計画された。長野市行啓の計画には、松代の真田邸訪問という予定があったので、小島田村を中心に川中島の古戦場を見学という申請がなされ、古戦場に休憩所が建てられた。


写真44 八幡原に皇太子(のちの大正天皇)を迎えるために建てられた休憩所 (安川元昭所蔵)

 行啓の道筋の県庁から長野中学校体操場間、長野・松代間、松代・屋代間の道路は改修され、宿舎の大勧進も改修された。児童生徒たちの歓迎の方法については、同年四月二十五日に長野高等女学校長渡辺敏、長野商業学校長山口菊十郎、長野高等小学校村松民治郎、長野尋常小学校鷲沢八重吉が集まって、奉迎奉送の打ち合わせをした。小学校生徒作品の展示を上覧に供することになり、作文・習字・図画の作品を書く紙の質や規格まで決められている。

 また、奉迎時のいろいろな心得が決められ、県や市の職員の服装はなるべくフロックコートとし、赤い靴ははかないこと、やむをえない場合は紋付袴(はかま)で、履(は)き物は下駄(げた)ではなく草履(ぞうり)を着用すること、帽子(ぼうし)は鳥打(とりう)ち帽子はかぶらないことなどが通達されている。長野駅でのお迎えは、知事・市長・県議・長野市議会議長・日本赤十字支部長、また芹田村代表等で、その並び順が新聞に報じられている。

 『信毎』は殿下にお供(とも)する知事・警部長等の県関係者の分担、先導の巡査の名前まで逐一(ちくいち)報道し、行啓の準備の状態を記事にしている。これは行啓の受け入れがいささか大げさすぎるという感じをもっていたからであった。『信毎』の同年四月二十八日号の二面には「皇太子殿下のご来遊に就いて」という社説に近い記事がある。言葉を選びながら、長野市だけで数万円の費用を使っていることを指摘し、あばら屋に住む忠愛なる臣民として君民ともに楽しむ程度の「分度」を守りたいと主張している。

 皇太子殿下は高崎で一泊ののち、五月二十一日午前一〇時五三分に高崎を出発した。折から足尾鉱毒問題で抗議運動が激しくおこなわれていたときであったので、高崎停車場で鉱毒事件について直訴するものが出たが、「お召し列車」は予定どおり午後一時三五分軽井沢に到着、上田をへて長野駅には午後四時五四分到着した。列車は普通の乗客を乗せた車両といっしょに編成されていた。

 長野市での宿泊は、大勧進に皇太子と側近の人びと、万菊には斎藤東宮大夫ら、犀北館には木戸侍従長ら、花房屋には村木武官長一行が宿泊した。皇太子殿下の飲まれる牛乳は、権堂町の禰津秀之助牛乳店のものが採用された。殿下はとくに蕎麦(そば)を希望されたので、柏原村(信濃町)の中村兵左衛門(元長野町町長)と中村茂八が材料を持参して作った。食事は夕飯は西洋料理が主で、昼食のみ日本料理であった。セロリやパセリをふくむ食材は後町の池田元吉が、牛肉は西町の室川十蔵が納入した。二十二日には鶴車(人力車)で長野市を出発し、川中島古戦場を見学して松代の真田伯爵家別邸に行啓したが、古戦場での休憩の折の茶菓子は横町の風月堂のものであった。殿下はさらに妻女山にも登られた。

 殿下は五月二十三日に長野県尋常師範学校を訪ね授業をごらんになり、予定の長野中学校ではなく長野大林区署へ立ち寄り、木曽の材木のことを尋ねたり、苗木の畑を見学して興味を示された。善光寺を参拝のあと、徒歩で城山館(じょうざんかん)まで行かれ、用意の物産の陳列をごらんになった。城山館で昼食後、有栖川宮(ありすがわのみや)とともに明治三十三年五月に着工した御慶事公園(現城山南斜面の公園=皇太子殿下ご成婚記念、竣工は明治三十六年)まで歩いて下られ、二〇分ほど見学ののち記念植樹をし、再び城山館へ、さらに大勧進に戻られ同所内紫雲閣にのぞみ、陳列の書画骨董(こっとう)をごらんになった。佐久間象山の事跡に関心を示された。翌二十四日午前九時すぎ、皇太子殿下一行は新潟市に向かって、列車で長野停車場を出発した。