時局史・郷土研究・地域の文芸

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明治三十七、八年(一九〇四、〇五)の日露戦争には長野市からの出征者は少なかったが、出征兵士の約一割におよぶ戦死者を出した。現長野市域に含まれる更級郡・上水内郡・埴科郡の兵士は第一師団に属したが、この師団は第三軍の一翼で旅順の攻撃にあたったので、莫大な戦死者を出した。長野市関係の戦死者の多かった理由である。この戦争の全総括として「長野市三十七八年戦時誌」、「更級郡明治三十七八年時局史」、「明治三十七八年上水内郡時局史」が編まれている。これらの時局史は、取り扱い項目のほとんどが同一で、戦時にさいし各村がどのように働いたか、出征兵士の留守家族の援助の状況、赤十字の働き、婦人会や新設間もない愛国婦人会の活動等を書き上げている。取り上げた項目のなかに「神社及び宗教」があり、神社は宣戦布告とともに皇軍の戦勝を祈念し、出征者にお守りを授与し、臨時祭を執行したことが報告されている。寺院は戦死者の葬儀や追善法要をおこなったようすを述べている。

 『上水内郡時局史』によれば、戦死者の村主催の葬儀では来賓に飯食を出さないこと、町村長の会葬は隣村までとすること、供花に費用を使わないこと、団体の支出費用は二五円までとすることを決めていた。また、遺骨が帰ってきたときには、丁重に儀式をおこなうことが定められ、まず、関係町村の神職が奉仕して祭式をおこない、郡長が遺族に哀悼の辞を述べ、遺族に遺骨を手渡すことが決められていた。

 日露戦争が終わっても、賠償金も領土も獲得できなかったので、国民の感情を配慮しなければならない状況であった。増税の解消もできなかったし、戦死者の家族の保護も大問題であった。反戦感情は戦争中におさえこんだが、国民のなかに政府批判の言動があり、政府も県も市もこの社会状況を乗り切る「戦後経営」というスローガンを掲げざるを得なかった。時局史はその政治の一環として編さんされた。

 長野高等女学校長渡辺敏は、国史教育には郷土研究が必要であると主張し、長野町の郷土資料の収集を明治三十年におこない、この資料を四十年に出版した。郡誌の編さんはこの考え方のうえに立って、三十年代に各郡当局か郡教育界の手でおこなわれた。

 『上水内郡誌』は明治三十年代に準備され、明治四十一年に出版、『埴科郡誌』は四十三年に上梓(じょうし)されている。編さん者は主に教員で、国家意識の涵養(かんよう)に教育の郷土化や地方の研究が重視された結果であった。

 郷土史の研究団体も結成され、四十二年には長野県尋常師範学校内に浅井洌、唐沢貞治郎を代表とする「信濃史談会」が生まれた。資料の散逸をおそれ、早急に資料調査をおこなうこと、地方の歴史研究の重要さを会創立の理由としている。

 三十五年の長野市内の編集者の会合の顔ぶれをみると、『信濃教育』『実業雑誌』『信友雑誌』『平民文学』『三日月雑誌』『信陽旭』の六誌から代表者が出席している。『信濃教育』は信濃教育会の機関誌であり教員の雑誌であった。『実業雑誌』は商業の雑誌であるが、『信友雑誌』以下は神道の『三日月雑誌』のように、それぞれの主張はあっても、読者の参加のページがあり俳句や短歌や詩が掲載されている。このような商業雑誌の読者のページのほかに、『信毎』には「歌壇」があり、選者は浅井洌の国風社系の人びとのあとは、新派に変わっていった。


写真45 明治30年代に発刊された雑誌類
(東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵)

 明治十九年に城山館が建設されたころ、臼井清五郎経営の常磐井(ときわい)座(揚げ小屋)が善光寺の作事小屋あとに移転し、芝居小屋の三幸座が生まれた。善光寺境内では大道芸人が仮小屋を設けて諸芸を披露していた。その内容は傀儡師(かいらいし)(人形つかい)、曲芸師、手品師、役者、講談師等であった。日清戦争が終わったのち、元善町に日清戦争を題材としたパノラマ館(題材を絵画や人形で説明するもの)がつくられ、平壌(へいじょう)の戦闘場面が展示された。内容は第一朔寧支隊、第二元山支隊から第一四左翼隊まで、各隊の展開が一望できるものであった。

 千歳座では日清戦争の活動大写真が、三十年七月六日から九日まで四日間、午後七時から上映された。三十三年には長野パノラマ館が開館されたが、これは永禄(えいろく)四年(一五六一)の川中島合戦と善光寺一代記を題材とした見せ物であった。三十六年に城山パノラマ館が開館された。この館の題材は三十三年六月の義和団の乱(北清戦争)で、各国連合軍の天清城総攻撃のようすが描かれていた。郷土の英雄福島安正少将が騎馬で進軍する人形は真に迫る光景であったと、『信毎』は伝えている。