明治二十九年(一八九六)七月、善光寺山内に一乗教会が設立された。一乗教会は天台宗比叡山中に置かれていたものであったが、この年比叡山から分離独立し善光寺一乗教会となった。この会は、善光寺仏の光を世界に輝かすことを目的としていた。具体的な活動方針は、後継者養成の教校の設立、書籍雑誌の発刊、感化育児施療院等の設立、海外布教、社会的博愛慈善事業等であった。
明治二十九年は善光寺大地震五十年忌にあたったので、五十年忌大供養と日清戦争の戦没者追悼供養が、四月一日から五〇日間おこなわれた。戦没者の位牌(いはい)を本堂内に飾り、参詣した遺族に焼香(しょうこう)が許された。地震塚の前にも仮屋を建ててそこで法要をおこなった。御開帳にも劣らないにぎわいとなった。
善光寺はこの法要にあたって、本堂の屋根板葺(ふ)きかえの費用を募ることにし、寄付者の名前と金額を屋根板に記載することにした。大勧進、大本願、山内一同、町内の有力者からなる屋根換協議会が発足し、二万五〇〇〇円の費用をもって五ヵ年で完工する計画が立てられた。このときはまだ檜皮葺(ひわだぶ)きではなく板葺きであった。屋根の葺きかえは明治三十六年に完工し、屋根葺きかえ供養がおこなわれた。
明治二十四年の大火で焼失した仁王門の跡地に、三十二年五月に高さ一四メートル、一二〇〇燭光(しょっこう)のアーク灯が、東京の村井兄弟商会から寄進された。屋根葺きかえ供養がおこなわれるにあたって、長野市内の煙草(たばこ)商は村井商会の向こうを張って、仁王門跡地に凱旋門(がいせんもん)風の額灯籠(とうろう)を建設した。大勧進の万善堂の改修再建も終わり、大火で焼失していた大本願の本誓殿の再建も進行中であり、善光寺は大火の影響からようやく脱却した。
御開帳は明治三十三年(一九〇〇)におこなわれたが、この年の長野駅の乗降客数は前年の約二倍となっている。日露戦争が終わって多くの戦死者が出たので、長野市民から善光寺に対し三十九年に善光寺開帳と戦没者追悼会の執行が請願された。これに対し、大勧進と大本願は一六条からなる返答書を請願の代表者に渡し、この返答書の要求が入れられなければ明年の御開帳の延期もありうるとした。この返答書の項目を要約すると、①遺族者の優待券を一〇万枚調製すること、②追悼会には皇族殿下ご代拝(天皇の名代のこと)、③陸海軍を代表して大山巌元帥・東郷平八郎大将の参拝を仰ぐこと、④本県出身の将官以上の参拝を仰ぐこと、⑤各宗管長に懇請して日割りをもって追弔の法会(ほうえ)を願い、境内に忠霊檀を設けること、⑥遺族の便宜をはかるため全国汽車汽船の割引を請願すること、などであった。
明治三十九年の御開帳はけっきょく実施されたが、長野駅の乗降客数は三十三年の御開帳におよばなかった。日露戦争の痛手は深いものがあり、容易に解消できなかったのである。
明治三十七年日露戦争の宣戦布告が発せられると、全国の官幣社へ勅使が派遣され、諏訪神社と戸隠神社、生島足島神社に勅使が参向し、祝詞(のりと)とご祭文が捧げられた。出征兵士の戦死者が数を増してくると、各市町村で公葬がおこなわれるようになった。戦死者は靖国(やすくに)神社に祭られるので、町村の公葬は神道(国礼式)で執行することが多くなった。公葬の葬列の次第が決められ、祭官の服装も制定された。
征露記念碑や戦死者の慰霊の碑(忠魂碑など)が神社の境内に立てられるようになった。また、戦死者は靖国神社に祭られるので、地方の招魂社に合祀(ごうし)することが始まった。招魂社は明治維新の動乱の戦死者を祭るために設立された神社であった。したがって招魂社は、松代・上田・須坂などの旧藩の所在地にのみあり、日露戦争以前の戦争の戦死者は招魂社には祭られていなかった。しかし、あまりに犠牲者の多かった日露戦争の戦死者を祭るため、以前の戦死者も日露戦争の戦死者と合わせて、招魂社に合祀することになり、招魂社は、靖国神社の末社の観を呈した。また、招魂社のない地方では、招魂社設立の動きがあり、上伊那郡伊那町のように三十八年に私祭招魂社を新設し、さかのぼって西南戦争・日清戦争の戦死者も合祀したところもあった。
江戸時代に小藩の分立した信濃国では、全県的な招魂社がなかったので、明治十二年に西南戦争の戦死者を祭るために、上水内郡長野町字城山に信濃招魂社の設立が企画された。発起人は城貞吉・島津忠貞(飯山町)・山田荘左衛門(江部村)ら二六人であった。その後、日清戦争もあり社殿の造営は進まなかったが、御慶事(ごけいじ)記念(のちの大正天皇の成婚記念)公園の造営中の三十四年に、信濃招魂社設置発起人は、所有する地所・資金その他一切を長野市に寄付し、同時に西南戦争の戦死者名簿も長野市に引き渡した。信濃招魂社は、全県を統括する招魂社として計画されたのであり、日露戦争で招魂社の性格が変化したので、上水内郡と長野市の日露戦争戦死者はここに祭られることになった。
明治三十年代に入ると、政府は無格弱小の神社の整理を進め、お祭りにさいし、神社の供物料を社格にしたがって、国・県・市町村費から支出することを、三十九年四月に勅令で公布し、制度化された。神社は単なる宗教の範疇(はんちゅう)を超え、「国家の祭祀」をつかさどる機関としての立場を確立していった。
内務省は神社を一村一社として、神社を町村民の精神的よりどころとし、地方改良政策の中心施設としようとした。長野県が示した神社存続の条件は、一年間の収入が県社で三〇〇円以上、郷社では二〇〇円以上、村社以下では一〇〇円以上あることであった。
明治三十年に長野市では、日本基督教会(長門町)・日本メソジスト教会(県町)・日本聖公会(信大前)・ハリスト正教会(県町)の四つのキリスト教の教派が伝道していた。濃尾大地震の被害者の孤児を収容していた濃尾育児院の五大院宗平が来長して援助を訴えたので、市内の四教会は合同して援助に立ちあがり、明治三十二年三月一日に城山館で慈善音楽幻灯会を開催した。賛同者には知事・千葉直枝判事・大久保介寿長野県尋常師範学校教頭・県会議長・渡辺敏長野高等女学校長等が名を連ねている。
この慈善音楽会の賛同者たちは、長野市の盲人教育の後援者となり、楽善会を組織した。また、慈善音楽会を運営した活動家の一人中野節は、巣鴨の留岡幸助の家庭学校で働いていた若者であったが、帰郷して長野市で孤児院を経営した。基督教界の慈善事業では最初のものであった。
明治三十一年には立川雲平を塾長とする北信英語義塾が生まれた。幹事は安藤由太郎、教員は杉本榮太郎、フランク・エス・スカダーであった。立川は淡路島出身の弁護士で、長野県の自由民権運動家の弁護のために長野県に移り、自由党の代議士となった人物で、日本基督教会上田教会に属するキリスト教徒であった。また、小諸義塾の木村熊二とも親しく、島崎藤村ともつきあいがあった。杉本は、明治学院神学部を二十九年に卒業した日本基督教会長野教会牧師であった。スカダーは米国・オランダ改革派教会派遣の宣教師である。北信英語義塾は日本基督教会系の人々が経営した学校であった。
北信英語義塾は、普通科三年、高等科二年の学校であり、高等科では英文学・英文法・英作文・英会話・英文手紙練習の習得が目的であった。この義塾には、山路愛山・牛山雪鞋が協力し、長野県尋常師範学校の生徒であった手塚縫蔵(ぬいぞう)らもここで英語を学ぶかたわら、これらの人びとから影響を受けている。旧金沢藩士であった杉本の人格的影響は多くの青年におよんだのであった。
明治三十年代初めの長野市には、六人の宣教師がいた。日本メソジスト教会はプルーダム宣教師のほかに、ハーグレーブとワイグルという二人の婦人宣教師が駐在し、長野市に英和女学校をつくる準備をするいっぽう、旭幼稚園を開園していた。
日本聖公会はウォーラー宣教師と、ジェ・スミス婦人宣教師が駐在した。明治三十年にスミスは後町に慈恵医館看護学校をつくり、診療所と看護婦の養成にあたっている。日本基督教会のスカダー宣教師は、前にみたように北信英語義塾で英語を教えている。
『信毎』主筆の山路愛山は、三十四年に東京帝国大学教授井上哲次郎が信濃教育会でおこなった講演にかみつき、『信毎』紙上で七日間にわたり同講演の批判を連載した。愛山の信濃毎日新聞赴任当時に日本メソジスト教会の宣教師であったプルーダムの道徳的性格を批判した信毎紙上の論説は、カナダでの裁判事件にまで発展した。長野市の宣教師はアメリカ人のスカダー以外はすべてカナダ人であった。
プルーダム転任後に赴任してきたダニエル・ノルマン宣教師は、多くの信州人に愛され、引退するまで三三年間長野市に住んだ、青い目の信州人といわれた人物であった。ノルマン・愛山の周辺には気骨あるキリスト者が集まり、教派を超えた信徒の交流と長野市内の知識人の交わりが生まれた。ノルマンはまた英語夜学校を開設し、自宅の庭に進徳館という学生寄宿舎を建てて青年の育成をはかった。長野中学校・長野商業学校の生徒がここから学校に通った。
明治三十九年四月から、小諸義塾閉校に追いこまれた木村熊二が、日本基督教会長野教会牧師として赴任してきた。愛山は三十六年に東京へ去ったが、一〇年におよぶ留学の経験のある木村が長野市に住んだので、木村、ノルマン、ウォーラーの親密な交際が始まり、このノルマンサロンには渡辺敏らの多くの知識人が集まった。
宣教師は、市内の中学校等で英語教師をつとめた。明治三十年代に長野中学校で教師をしたのは、聖公会の司祭チャールス・エッチ・ショート、ゼージ・ウォーラー、ダブリュー・ケネディであった。ノルマンは長野商業学校の講師をした。彼が講師時代に長野商業の英語の校歌を作詞作曲した。曲はノルマンの母校トロント大学ビクトリアカレッジの校歌を借用したものであるが、詩は三番まであって一番は以下のとおりである。
At the foot of Asahi Mountain,/In the shade of Susobana Glen/There stands our noble school, That's pride of all the Ken/In the Susobana Glen.