野球と庭球のはじまり

818 ~ 821

長野県尋常師範学校(以下校名略称)の学友会は、明治三十年(一八九七)十月の第七八回例会で、尚武団の組織に撃剣部・弓術部・探検遠足部と並んで野球部を設置することを決議した。長野師範が県下中等学校野球の先駆となった。三十二年に諏訪実科中学校と、支校から独立した長野中学校とに野球部が生まれ、翌三十三年上田中学校・飯田中学校に、三十五年には松本中学校大町分校、三十六年には長野中学校飯山分校に、三十八年には野沢中学校にあいついで野球部が設けられた。野球は新時代の象徴的スポーツであった。

 松代青年会雑誌が野球のルールを紹介したのは明治二十年のことであるが、その一〇年後に長野県の野球が本格的に始まったのである。対校試合は、上田中学(長野中学上田支校)が三十三年五月、本校の長野中学野球部と対戦し破れ、七月に再度挑戦したが敗北した。上田中学は、東京帝国大学から野球界の権威者高橋雄次郎を招いて指導を受け、翌三十四年に長野中学に再度対戦して雪辱した。このように中学校間で対校試合が始まった。

 散発的な対校戦ではなく、覇(は)を競(きそ)う大会が始まったのは、三十五年十一月の長野県尋常師範学校主催の県下中等学校連合運動会の対校野球大会であった。参加校は松本・長野・諏訪中学校、上伊那農学校、長野商業、長野師範(師範学校は中等学校であった)の六校であった。しかし、このときの参加校のうち上伊那農業と長野商業には野球部がなかった。対校戦の前日から風雨が強まり、野球は実施できなかった。翌年の三十六年に第二回連合運動会が催され、十月十七、十八日の両日、松本中学で野球の試合がおこなわれた。まだトーナメント形式で優勝を争う大会ではなかった。この大会では長野商業と上伊那農業が不参加、かわりに上田中学、飯田中学、小県蚕業学校が参加した。第三回は長野中学が当番、第四回は上田中学が当番でおこなわれた。この大会から大町中学が参加し、第四回大会から野沢中学、第五回大会から飯山中学が参加している。第五回の連合運動会は長野師範が当番校で開催された。この大会で、松本中学は強豪の長野師範を破り、上田中学は諏訪中学に勝った。そこで松本中学と上田中学を対戦させることになり、結果的にトーナメント形式に近いものが生まれた。

 小学校の野球は、師範学校を卒業した教師たちによって全県的に広まっていった。明治三十二年には桔梗(ききょう)ヶ原でベースボール連合運動会が開かれ、北信や伊那の小学校もこの大会に参加するようになった。三十八年以降は松本中学が主催して小学校の野球大会が開かれ、三〇校が参加し、優勝が決まるのに四日間かかった。大正七年には後町尋常高等小学校と松本尋常高等小学校の間で優勝戦がおこなわれ、延長戦になったが、後町はスクイズバントを敢行して勝利を握った。しかし、一般にスクイズプレーが知られておらず理解ができなかったので、観衆の乱闘となり、危険を感じた審判がノーゲームを宣した。

 庭球(軟式テニス)も長野師範から県下に広がった。高等師範学校の教員坪井玄道が明治十九年ゴム会社にボールの作成を依頼し、二十三年に試作品ができた。これが「赤Mボール」で、これを使って高等師範学校でソフトテニスがおこなわれ、東京高等商業学校(現一橋大学)との対校戦が三十一年におこなわれたが、軟式庭球といわずにローンテニスと呼んでいた。長野師範では高等師範学校卒業の教員によって、二十五年からテニスが試みられた。三十二年五月二十八日(地久節=皇后誕生日)には、長野師範の中庭で、「ローンテニス競技」が長野教育会員によっておこなわれた。長野師範に庭球部ができたのは、三十二年十月三十日であった。

 県下小学校への普及は明治三十年代からで、三十二年には松本高等小学校で小学校のテニス競技会がおこなわれている。三十五年には更埴連合庭球大会が埴生小学校でおこなわれ、八〇人が参加している。三十八年からおこなわれた長野高等女学校主催の小学生の「善光寺平連合庭球大会」は、長野市の小学生のほか中野・飯山・小布施の小学校が参加しているが、善光寺平以外からも参加者があった。女学校が大会を主催したので、庭球は女子の競技としても普及していった。そして一部で軟弱な競技といわれた。

 中等学校の庭球は、長野中学が三十四年五月に、上田中学と対校試合をおこなっている。同年六月には上田中学が長野に遠征して、師範学校の校庭で長野師範・長野中学と対戦した。また、三十四年十月には新潟県の高田中学で信越連合大運動会が開催され、長野師範、長野中学、上田中学、高田師範、新潟師範、高田中学の六校が参加してテニス競技がおこなわれた。

 庭球は、女学校にも普及し、なかでも長野高等女学校長渡辺敏は、生徒の体育振興をはかって三十五年に運動部を設け、全生徒を運動部に加入させた。この運動部の中心は、庭球部であった。長野高女はグラウンドにコートを作ったが、これが有名な一八面コートであった。三十四年には上田・松本・飯田に女学校が設置されたが、松本高女では開校直後の三十四年七月にローンテニス会を開催している。三十五年十月十二日に長野師範女子部でローンテニスコート開きがおこなわれ、師範女子部と長野高女の対校戦がおこなわれた。同十月十六日には松本高女の生徒が修学旅行で長野に来る機会をとらえて、長野師範女子と長野高女との対校戦が実現した。

 このように、野球と庭球はしだいに遊びからスポーツとして普及していったのである。この趨勢(すうせい)を推し進めたのは、明治三十五年からの県下中等学校連合大運動会であった。三十七年の第三回連合大運動会は、長野中学校で開催され、ローンテニス競技では長野師範・松本中学・長野中学・上田中学から各一〇人、諏訪中学、大町中学、長野商業からそれぞれ八人、小県蚕業から六人の合計七〇人の選手が集まっている。翌三十八年の連合大運動会では、三十七年の参加校に加えて、飯田中学・松本商業・野沢中学の三校が加わり一一校の対校戦となった。競技の形態は各校によって出場チーム数が異なるので、個人戦(ダブルスであるが)の形式であった。全試合に勝ち抜いたのは長野中学の中条・出野組であった。