近代登山が始まる前に、富士山や御嶽山や戸隠山への山岳信仰の登山がおこなわれていた。明治十六年(一八八三)に大町の仁科学校長渡辺敏は、自然の気にふれ心を養うために白馬岳に登山している。近代登山の先駆けであった。英国人宣教師ウエストンは二十四年から御嶽山、槍ヶ岳、乗鞍岳、穂高岳などに登り、これを日本アルプスとして紹介した。二十七年には札幌農学校を卒業し、長野中学校へ赴任した志賀重昂(じゅうこう)が、『日本風景論』を出版した。この書の槍ヶ岳の描写にひかれて登山した小島烏水(うすい)らは、山岳会の設立をウエストンに勧められている。
学術登山の分野では、長野師範の羽田貞義教諭が、生物学講義のために戸隠山に登って生物採集をおこなっている。明治二十六年に長野師範に赴任した矢沢米三郎は、河野齢蔵とともに乗鞍岳に登って採集をおこなった。二十八年に羽田・矢沢・渡辺敏を中心とした長野市在住者による「長野博物会」が生まれた。この団体は三十五年に全県的研究会に生まれ変わって「信濃博物学会」となり、「信濃博物学雑誌」を発行した。会員は長野師範学校生徒、同師範学校教職員、小中学校教員等であった。
長野師範の修学旅行は、明治二十二年には白根山・浅間山登山をふくむ群馬、栃木県への旅行であった。翌二十三年は富士登山のあと、京浜方面をまわっている。三十年代末から自然観察や野外授業が教育のなかに取り入れられ、教室の外へ出ることが多くなった。長野師範では植物・鉱物の観察採集のため、しばしば高原や山岳に登っている。
明治三十五年から長野高女は、戸隠山に集団登山を始めた。渡辺敏の発想で、歴代の校長によって受け継がれた。やがて集団登山は富士山、飯綱山登山に広げられ、大正期まで継続した。戸隠山に登山した女学生のいでたちは、袴(はかま)の裾(すそ)をくくって足にはわらじを履き、上半身は着物に白いたすき掛け、頭は白い鉢巻きで締め、無帽であった。長野高女の登山は、大正に入って戸隠山から白馬岳登山にかわった。