地方改良政策の展開と市町村民

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明治四十年(一九〇七)六月、県知事大山綱昌は郡市長会議で、日露戦争の痛手をすみやかに回復しなければならないとし、慢心を戒めて着実に国家を繁栄させるための地方改良政策として、二二項目にわたって訓示した。これは、前年の明治三十九年に、内務省が地方長官会議で指示した事項の、長野県における具体化であった。その内容は、①行政事務の円滑な処理と関係機関の意志疎通の徹底、②町村合併の推進、③一部一区の財産(部落有財産)の統一と町村基本財産の蓄積、④地方青年団体の指導改善と簡易図書館の小学校への付設、⑤郵便貯金を利用した勤倹貯蓄の奨励、⑥義務教育年限延長にともなう諸施設の実施と一町村内の学校・学区の整理統合、⑦神社合併の推進と神職の統制、⑧桑園の増殖改良と植林の奨励などが主なものであった。

 明治四十一年十月上水内(かみみのち)郡大豆島(まめじま)村農会は、『長野県上水内郡 大豆島村々是調査』を刊行した。町村の自治経営の完全を目的として、村の気象・人口・生産・収入・消費・負債・耕作など十数項目の調査を実施し、その結果にもとづいて村の将来の経営のあり方を「村是」としてまとめた。村の産業の中心は、精神的であるとともに勤勉で筋肉的な労働にささえられた農蚕業であるとしたうえで、①社会の風潮にともなってぜいたくに流されるようになってきた生活を改めるため、この調査資料を参考にして「家是」を確立し、精神的・実践的な村民の気風をつくること、②質素を旨とした家計の収支をはかること、③農事の改良をおこない、生産の増収を実現して、貯蓄組合を設立して蓄積すること、④農蚕業を発達させるために、実業教育の普及をはかること、農会として養蚕飼育の改良、農馬の飼育、緑肥の栽培、耕地整理に取りくむこと、などをかかげた。調査資料では村の負債額や歳入不足額もしめして、全村民が覚悟をして自治自営の努力をしていかないと、村が成りたっていかないとの危機感ものべている。


写真1 大豆島村々是調査資料

 県は明治四十二年三月、義務教育年限の延長にともない、就学児童の増加による校舎の建築や教員増のため、臨時の支出が多くなるので、この機会を利用して部落有財産の統一をすすめるよう通牒(つうちょう)した。長野市の基本財産(現金)の蓄積状況をみると、明治四十年度に一七〇〇円余であったが、四十一年度に二八〇〇円余、四十二年度に三七〇〇円余へと大幅に増加した。また、四十四年度には小学校基本財産(現金)として一一〇〇円余の蓄積があった。明治四十四年四月、上水内郡芋井村は入山荻久保組所有の土地一反一畝(一〇九〇平方メートル)余りを、部落有財産の整理を理由に、価格二五円余で売却することを郡へうかがいでて、五月に認可された。しかし、三十九年九月に荻久保から長野市へ通ずる道路の裾花(すそばな)川にかかっていた橋が流され、工事費を負債でまかなっていたが、返済の方法がなかったために、財産の売却代金はこの返済にあてられた。基本財産の蓄積とは関係のない部落有財産の整理もみられた。

 更級(さらしな)郡信田(のぶた)村では明治四十四年三月、村会議員・区長・各部落総代人が協議して、部落有財産の統一について、①財産統一と同時に村基本財産造成のため、各区は村税を標準に負担金をだす、②村で必要な土地・建物は負担金で購入し、不要な土地・建物は各部落で売却し、負担金にあてる、③土地・建物などを所有しない区は、数年間で負担金を拠出(きょしゅつ)する、という案にまとめていた。各区の負担金は、赤田区一四八四円、田野口区二〇二一円、氷ノ田区一〇四六円、灰原区三〇三円、高野区七一四円、田沢区四五七円となっていた。四十五年一月、信田村は部落有財産の整理統合をまだ完了しない他の町村とあわせて、郡役所から統一方法・期日を一月二十日までに報告するよう回答をもとめられたが、統合にはいたらなかった。


写真2 明治末年ころの信田村赤田の農家
(『北信濃の100年』より)

 大正七年(一九一八)十二月、更級郡役所の書記と郡駐在の県技手が信田村へ出張し、役場へあつめた関係部落の区長・総代、村会議員などと部落有財産の統一について協議した。八年二月にも吏員が出張して、財産統一を督励した。二月十四日、村長は関係者の協議をうけて財産統一の条件として、①統一した土地・建物はすべて村で経営する、②いままで各部落で維持・管理してきた道路・橋梁などは村へ移管する、③統一した林野は、地元部落に組合をもうけ、保護取り締まりを委託する、④住民が必要とする緑肥・燃料は無償で利用できる、などの条件をしめしたが決着をみなかった。

 県全体における部落有財産の統一状況をみると、明治四十三年から大正元年までの二年間で、財産を所有している部落数が一八パーセント減少しただけであった。大正三年、知事の事務引きつぎのなかで、部落有財産の統一・整理を強力におしすすめてきたが、部落間の財産の不均等、旧来の慣習などにより、順調に整理ができていないとし、現在も機会をとらえて督励中である、とのべている。

 埴科自彊会(じきょうかい)は、戌申詔書(ぼしんしょうしょ)の趣旨をかかげ、勤倹の気風をやしない、産業・教育の発展をはかることを目的として、明治四十二年に設立された。四月に屋代町(更埴市)で第一回総会を開催し、自彊会会則をさだめた。事務所は埴科郡役所に置き、実施する事業は、会の目的の普及とその実現に功労のあったものや他の模範となるものの表彰で、役員は会長に郡長、幹事・評議員に各町村長が就任した。四十三年四月開催の第二回大会では、明治天皇即位五十周年記念の準備として、郡農会・教育会・青年会、報徳会などと連絡を取りあって、桐樹・桑樹の栽培、貯蓄の奨励などを決議した。また、東条村の東条青年会を、青年補習教育の成績が良好であるとの理由で表彰した。

 明治四十二年六月、県は郵便貯金が地方公共団体の事業資金に運用できるようになり、資金の供給は各地の貯金の増加額を考慮して決定されるので、貯蓄をいっそう奨励するよう通牒した。十一月になって埴科郡役所では各町村に貯金組合の設置数を報告するようもとめた。埴科郡豊栄(とよさか)村では、貯金組合設置規程を村会で決定すること、村内各組の貯金奨励委員には組総代と青年会長をくわえること、四十三年四月までに村内の七組すべてで設立を終了すること、などを内容とした計画を立て設立に取りかかった。牧内組では牧内青年会が四十三年五月に共同貯金組合を設立した。預けいれ先は松代郵便局で、満三五歳にたっして青年会員でなくなったとき、他郡市へ婿養子にいったとき、本人死亡のとき以外は満期になるまでは解約できないことになっていた。桑根井組では桑根井勤倹報徳社の定款を四十三年四月に改正した。二宮尊徳の教えにもとづき、農家の道徳を起こすこと、などを目的とし、会の資本を土台金・善種金・貯蓄金の三種類とした。土台金は社員が入社のさいに納めなければならない寄付、善種金は社員が節約や夜業で得て差しだすもの、貯蓄金は毎月五銭以上貯蓄するもの、となっていた。預けいれ先は銀行であった。

 貯金組合には、郵便規約によるものと一般金融機関によるものとがあった。明治四十三年十二月における埴科郡下町村(現長野市域)の郵便規約貯金組合の状況をみると、組合数・組合員数ともに清野村がいちばん多く、二四組合、五六一人であった(表1)。貯金額は松代町が一六一七円余で最多であった。清野村の組合の内訳は、報徳社関係一五、学校一、青年会一、地域七であり、松代町は学校一、地域九となっていた。なお、寺尾村では婦人会によって組織されたものが一組合あった。大正三年十二月現在、長野市と上水内・更級・埴科・上高井四郡の郵便規約貯金と一般組合貯金の組合数・貯金額を比較すると、郵便規約貯金が七五二組合・一四万六〇〇〇円余、一般組合貯金が二〇八組合・一八万五〇〇〇円余で、郵便規約貯金のほうが小規模・零細であったことがわかる。ぜいたくをおさえ勤倹貯蓄をすすめるなかで、県は四十二年三月、節約をはかるあまり日常生活の礼儀に必要な費用や産業の発展に必要な経費まではぶいてしまう傾向がでてきたとし、民力を養いつつ積極的な経営をすすめるよう通牒した。


表1 埴科郡郵便規約貯金組合調(明治43年12月)

 明治四十年五月二十四日、県は町村内の村社以下の多くの神社は規模が小さく維持に苦しみ、したがって信仰の実もあがらないとして、合併または境内への移転をおしすすめ、神社の維持方法を確立するよう訓令した。これをうけて五月三十日に埴科郡は「神社存続統合及移転内規」を通牒した。神社の格式・由緒、創立年代、祭神、氏子数、境内の広さ、収入額などに基準をもうけ、それに達しない無格社などの弱小神社の整理統合をはかろうというものであった。埴科郡豊栄村では、八月に内規にかなった神社として、熊野出速雄(くまのいずはやお)神社、源関神社、桑井神社の三社を報告した。四十一年一月、桑井神社へは無格社一社が合併、四社が境内へ移転となり、合併移転後の跡地・立木は桑井神社の維持財産に繰りいれられた。また、四十一年四月、源関神社へ無格社八社が合併された。熊野出速雄神社では、寄付金をあつめて建物を修繕するとともに維持財産を造成したい旨を郡へ願いでた。


写真3 皆神山頂の熊野出速雄神社

 明治四十一年三月、県神職合議所長大山綱昌(県知事)は合議所の幹事にあてて、神社の未整理が多いが存続の資格がなく合併に応じない神社について、神職は辞職するか祭祀を執行しないようにして制裁をくわえ、整理をすすめるよう通牒した。また同時に、存続の見こみのない神社が、社殿の建設をしたり維持財産を造成したりしないよう通牒した。七月に県は、神社の整理統合のさい、部落有財産を寄付する場合が増えてきたが、寄付した財産から生ずる利益を部落協議費にあてる例もあり、部落有財産となんら変わりがないので、監督を強めるよう郡長へ通牒した。神社の整理統合をめぐって、住民の側にさまざまな動きがみられたのであった。

 明治四十年の長野市・上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡の村社は四三七社、無格社は一八七五社であったが、四十三年にはそれぞれ三四三社(二一・五パーセント減)、三四七社(八一・五パーセント減)へと整理統合された。とくに住民の日常生活と密接な関係にあった無格社の整理がいちじるしく、宗教の国家統制がはかられていった。

 大正三年(一九一四)一月、更級郡は町村にたいし大正天皇即位記念事業の計画を立案して報告するよう通牒した。それには事業計画の参考事例が二九項目かかげられていた。主な事項は、部落有財産の統一の遂行、町村基本財産の蓄積、貯金組合の設置、文庫・図書館の設置、耕地整理の推進などで、ほとんどが地方改良政策として出された方針とかさなるものであった。五年三月、更級郡御厨(みくりや)村下布施組では下布施共同救護会規約をさだめた。大正天皇即位の大典を記念して基本金を蓄積することを目的としたもので、会員に一定の収穫籾(もみ)の拠出と毎月の貯金を義務づけて基本金を蓄積し、これを会員に貸しつけたり、郵便貯金とする、というものであった。この救護会は、昭和二十年(一九四五)十月まで運営が継続した。