長野市の財政と市民

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長野市の財政のうち、まず歳出をみると、歳出総計は第一次世界大戦後からいちじるしく増大している。なかでも教育費(経常部)の占める割合は、終始三〇パーセント台から二十数パーセントにおよんでおり、もっとも高率である(表2)。そのため毎年の予算編成のたびに教育費削減の議論が市民のあいだでかわされた。たとえば、明治四十五年(一九一二)長野商業学校の出生地別生徒数は、市以外のものが多数をしめ、長野市民の子弟はその四分の一にも達しない。そのうえ、同校の卒業生六八人中、商業に従事したものは四人にすぎない(大正二年『長野市事務報告書』)とし、またこうした状況をとらえて『信毎』は、商業学校を廃止すれば市費の二〇〇〇円余が節約となる、商家の子弟を教育するには商工補習学校でよいなどと書いたものであった。また、長野市では小学校一学級の定員は六〇人と決まっていたが、城山小学校、後町小学校などでは教室が狭いため三〇人ぐらいを一学級として一人の教員が受けもっていた。現に鍋屋田小学校と城山小学校の児童数は同じであるのに、鍋屋田小は二四学級であるのにたいして、城山小は三一学級もある、この七学級の差は教員給の無駄につながっている、これは不経済なことであるなどであった。さらに、大正二年(一九一三)には小学校にたいしては高等科の男女共学論がおこり、学級の整理をすべきだという議論も出ていた。


表2 長野市歳出(決算)


写真4 後町小学校校舎 
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 大正九年からは教育費が四三パーセントを占めるほどに膨張しているが、同年は市内小学校一校組織化のはじまった年にあたっており、本科正教員数が前年の七〇人から八四人に増えたことによるところが大きい。

 教育費の増大は経常費だけでなく、校舎建築などによって臨時部教育費をときには一〇パーセントにまで押しあげている。長野市立甲種商業学校増築にはじまり、城山・鍋屋田・加茂・後町の各小学校の新築・増改築、敷地買収が休みなく繰りかえされ、市町村合併の年の十二年には山王小学校と三輪小学校を新築、翌年には古牧小学校の改築、芹田小学校の教員住宅建築とつづいている。


写真5 大正3年竣工当時の加茂小学校
(『長野の百年』より)

 経常費のうちで二番目に多い費目は役所費である。したがって経費節減の方途はこれにも向けられた。明治四十五年人口がほぼ等しい松本市と比較すると、長野市は四七〇〇円余も上回っている、また、長野市の書記は松本市のそれに比べて九人多い。

 『明治四十年度長野市事務報告書』によれば、つぎのような行政上の問題をかかえていた。戸別割の賦課をうける官吏(かんり)やその他の一般市民はその負担の重さに耐えかねて、三輪、芹田村などへ移住するものが多かった。このような戸口の増減と出入りの頻繁による事業の開廃業はますます多くなり、執務事項の煩雑さは年とともに増加していた。さらに各学校の同年度分授業料徴収についても、種々の方策をこうじて不納者に注意をあたえたが、滞納者を減らすことができなかった。前年度分滞納者にたいして送付した督促状は商業学校分三八通、高等女学校分六〇通、尋常高等小学校分二八一通で、前年に比べて四二通増えた。このように他の公租公課とともに、滞納者の増加傾向は事務整理の遅延をきたしていた。

 臨時部の寄付金と補助金は、長野市の都市機能を維持発展させるために欠かせなかった。まず、明治四十年の一府十県連合共進会のあと、四十年代に県庁舎敷地代・建築費の寄付が重くのしかかり、また、大正末期の上水内農学校建築費と土地代の寄付、さらには大正十二年合併前の旧町村負担分を引きついでいる。十五年からは県立長野図書館建設の寄付も始まった。補助金は、大正十二年から毎年およそ二~三万円を長野電気鉄道に支払っている。

 土木費は、明治四十五年からの水道敷設(ふせつ)費と大正十一年からの中央道路改修費が大きい。水道の給水は大正四年四月から開始されたが給水工事は毎年つづき、十三年の歳出・水道費は三万六二九五円であったが、二万三〇〇七円(六三・四パーセント)は給水工費、三六八九円は修繕費にあてられている。これら諸事業のうち、大規模工事は起債に依存せざるを得なかった。その結果として公債費が二〇パーセント近くを占め、財政を硬直化させることになった。


写真6 長野市水道浄水場
(長野市水道局往生地浄水場保管)

 こうした一連の公共事業費の増大、財政支出の膨張にたいして、岡田県知事は長野市の市政調査会設置以来推しすすめられてきた都市計画にそって、大正十一年六月、町村合併による財政合理化と住民の納税額低減(節税効果)を、つぎのような四点にわたって力説している。①は上水道。②は教育費の削減。芹田村中御所の分教場は市内の岡田に設置の校舎に収容することとなり、三輪村の一部も市の校舎に収容しうるのでこれらによってクラス数の削減をはかることができる。③に道路網をつくって合併する町村の部落にたいし市を中心とした配置を考慮する。これによって市の周囲は文化的設備の恩恵に浴するとともに農村経済がさらに躍進してくるだろう。④に伝染病収容所、火葬場、消防器具機械等はいずれも共通的に使用することができ経費節減に役立つ。各市町村がそれぞれおこなっている特別の事業経費を均一に賦課することは不公平であるので、不均一賦課による特別負担をさせることとする。

 長野市の負担するものとして、水道、住宅、中央道路等の公債、貯金支局設置寄付、商業学校寄付、農業試験場設置など、芹田村は蚕業試験場設置寄付、上水内農学校設置寄付など、三輪村と吉田村も上水内農学校寄付があげられる。要するに、長野市としては現在の市費予算よりは二八万五〇〇〇円を減ずるのであるが、いっぽうにおいて不均一賦課による特別負担は二三万三〇〇〇円あるので、差し引き五万円余の減額である。だいたいにおいて役場費、会議費、火葬場費、諸税負担などは減額になるので、市町村は現在よりも三輪村を除いて減額となるのである。

 ただし、④の不均一課税は、旧町村も望んでいたことであったが、合併後、実際には戸数割において地区によらず、均等に負担されている。

 つぎに、こうした増大する歳出に規定された歳入を見ると、表3のようである。もっとも大きな比率を占める市税は(詳しくは後述)、肝心な起債の実態について記載が不十分で知ることができない。わずかに内務省編『地方財政概要』から摘出した大正九~十五年のあいだの年度末市債残高についてみると、表3のように累増しているようすがわかる。


表3 長野市歳入(決算)

 給水料は、歳出の水道料にくらべてかなりの黒字になっており、大正十五年の差益(七万六六〇三円)は市税の一二パーセントに相当している。ところで給水料と水道費は大正十年から経常部に計上された。それまで水道の収支は特別会計であった。給水後四年たった七年には、給水区域内戸数七三〇〇戸にたいして普及率が五〇パーセントにおよび、とくに善光寺付近、立町・花咲町・旭町など官庁街の市街地区では七〇~九〇パーセントにまでにおよんでいた。

 財政の詳細な連年の決算書が入手できないので、市税の内訳は『地方財政概要』の予算書によるほかはない。それによれば、大正九年までは戸数割付加税が六〇パーセント以上を占めていたが十年に四五パーセントに、十五年には四一パーセントに低下している。これと対照的なのが、営業税(国税)付加税と雑種税付加税である。営業税付加税は九年の七・五パーセントから翌年の一七・七パーセントへ、十五年に二〇・六パーセントへ増加し、また、雑種税付加税は九年の一二・一パーセントから十五年の一八・八パーセントに推移している。

 こうして、第一次世界大戦後の歳出の増加にたいする財源として、十一年度予算では市内の尋常小学校から授業料を徴収することが話題になり、十二年度予算では遊興税付加税が松本市にくらべて二倍に達するなど、財政当局は財源確保に苦慮していた。いずれにしても大戦後は、戸数割の比率を下げ、営業税、雑種税に依存する都市的租税構造になっていたのである。

 市税のうち戸数割(付加税)の相対比率は下がったといっても、金額的には依然として大きな割合を占めている。とりわけ各戸にたいするその賦課額はつねに問題視されてきた。戸数割の決めかたは見立割によるため、長野市長さえも、市会議員が感情で等級を上げ下げ可能な悪税であり、大正七年度の戸別割のかかり方をみても、自分らにどうしてこんなにかかってくるのか驚いている、と明言している。また大正六年度の等級で、『信毎』は矢島浦太郎が「鉱山成金」となったのを機に七等級上げて八等級とした「当局のさじ加減」に注目している。

 ちなみに、長野市の戸数割からみた九年度番付表によれば、年俸四五〇〇円の赤星知事は一四等級で県税三三円、市税はその五倍の一六五円、年俸一四〇〇円の牧野元長野市長は二三等級(県税一一円四一銭、市税五七円)、年俸一一〇〇円の河野齢蔵長野高等女学校長は二四等級(県税八円七〇銭、市税四二円)などとなっている。

 いっぽう、長野市の事情に通じたものの話によれば、同市戸数割等級四四等級のうち、第四〇等級・年額三円二〇銭の市税を納めるあたりが生活上の限界線とみられるようである。大正七年の場合でその対象となるのは三一五六戸となり、納税のできない困窮者は一六八人いた。

 市税滞納者にたいする市の処置として、異様な服装をしたものがとくに人目を引く赤色の車をひいて、差し押さえ処分をおこなった。これは処分を受けるものにたいして、市民の目にとまらせて赤恥をかかせ、恐喝(きょうかつ)的手段によって納税を督促するものである。したがって毎年増額される戸数割の負担に耐えかねて郡部に移住して負担を免れようとする傾向は明治四十年代からみられた。市内の人口は年々減少し、すでに松本市に追いこされ、近いうちに上田市の下位につかざるを得ないと、大正八年十二月の『信毎』は報じている。


写真7 長野市役所(昭和7年『長野市吏員撮影簿』より)

 税の滞納を予防するために県・市は、勤倹貯蓄を住民に訴えるなどして、工夫をこらしてきた。長野市役所では現にその月給中から納税に相当する額を差しひいて預金し、納税の月には領収書を交付して収納の証(あか)しとした。大正十二年三月一日に長野市内における納税組合設置奨励のため、市役所内に納税組合を設置し、その規約その他を印刷物にして各官公署に配布することになった。また、十四年六月に、県は長野市役所で、厚化粧をするな、婚礼をおごりにするな、酒を飲むな、たばこを吸うななど、勤倹奨励、貯蓄奨励をとなえる「勤倹デー」を催したり、また市では独自に十一月十日から十六日まで一週間にわたり勤倹奨励強調週間として国・県の宣伝ポスターおよそ二〇〇〇枚を市内の要所へ配布し、その宣伝につとめた。