長野市の都市計画

24 ~ 30

長野市が「都市計画法」による本格的な諸事業に着手するのは、大正十二年(一九二三)近隣一町三ヵ村の編入合併をしてからであるが、それ以前からその構想と準備はすすめられていた。それはこの時期市が市街の発展にともない、近隣の町村をふくめて道路網整備や公共施設建設の必要に迫られていたためである。

 大正元年十二月十七日市区整理調査のため、「市区改正委員規定」を設定し、将来改修および新設を要する街路の位置や方針を定め翌二年五月十七日に告示第一九号で発表した。その内容は、新設予定第一期二八路線、第二期九路線、改修予定第一期一二路線、第二期五路線、特別線二路線、計五六路線で、これによれば中央通りの改修を中心に市街の南部および東部の新設整備を計画しており、その後の旧市街地路線の骨格となるものであった。そしてこの路線計画の執行についてはつぎの標準によるとした。①第一期線は迅速に新設および改修する方針をとること。ただし関係者は路面の無償提供をするほか、工費の負担についてはその時々協議するものとする。②第二期線は第一期線につぎ漸次その執行を期すること。③特別線はとくに枢要な線路であるから、その費用方法等については特別の措置をとること。④予定線外でもとくに必要と認めたときは新設改修を妨げないものとすることなどであり、この市区改正計画はただちにこの年度から実施に移されちくじ進行した。

 大正六年一月十五日には、さらに市政調査会を設け調査研究の結果、委員会は単に路線だけでなく、①遊郭の移転、②上水道水源地の造林、③郡市境界の変更、④火葬場の改築、⑤小学校の増設、⑥監獄の移転、⑦記念公園の東方拡張、⑧湯福川の改修などの実現も要望した。

 これによれば、郡市境界の変更や小学校増設等の項目があることから、この調査会は当時の市域にとどまらず、近隣町村の合併をふくめた市域の拡張も視野におき、新時代に順応する市区整理の根本的諸計画を立てていたのである。

 長野市がこの調査をすすめるなか、国は全国的な都市の無計画な発達に対応して、都市区域を指定し土地利用や道路・公共施設などを計画的に建設するため、大正八年「都市計画法」を制定した。この法は財政的裏付けは乏しかったが、自治体が必要に応じ権限をもって土地収用など私権を制限して都市計画をすすめられるものであった。この時宜を得た法によって長野市も国の調査対象都市となり、十一年六月には内務省の都市計画調査として山田博愛博士が長野に派遣された。このころ長野市はすでに三輪村・芹田村・吉田町の編入合併問題が進行中であったが、山田は「できれば古牧村を加えた合併による都市計画が望ましい」と発言した。このときから古牧を加えた合併促進運動がおこされ、大正十二年七月一日には、吉田町ほか三ヵ村の編入合併が実現した。前後して中央道路の大改修に移り、大長野市建設の第一歩が踏みだされた。その第一段階として十三年二月には初めて三〇〇〇分の一地図および一万分の一地図の作成を始めた。いっぽう、国は同年二月「新国道十年計画」を発表したが、この新国道計画の沿線にあたる地方の中小都市では都市計画推進に好都合であり、長野市もその一つであった。


写真9 大正13年作成の長野市地図(部分)

 大正十三年六月二十八日にはこれまでの市区改正委員および市政調査会が満期廃止となることにより、新たに都市計画調査委員会を設けた。委員の構成は市会議員一二人、市民六人、計一八人であった。その後都市計画専任として西村林十朗技手をおき、さらに米元晋一顧問技師を嘱託とし、庶務課長以下関係吏員がこれに協力、参考資料を蒐集して、都市計画指定希望の意志を開陳した。しかし、九月の都市計画調査委員会で西村技手が基本案として「新長野市の地勢上から、理想の都心は鶴賀東区と古牧中条(中村か)との中間」がよいという構想を示したが、これには経済上から無理があるとの反対意見が多く、長野市の計画案はなかなかまとまらなかった。

 当時、都市計画法適用の指定は、人口一〇万以上の都市に制限されており、六大都市と二六都市に限られていたが、全国に中小都市が増加し指定の希望が増加の趨勢にあることから、従来の制限を改め、中小都市でも必要に応じて指定する方針をとるようになっていた。これをうけて国の都市計画中央委員会は十三年十月、長野市ほか数都市を指定の見込みであるとした。しかし、内務省では長野市の人口調査から、「町村合併で面積は六倍に拡大したが人口の増加はわずかに五割(四七パーセント)の増加にすぎない」として長野市への指定に難色を示していた。

 大正十四年三月ようやく長野、松本両市のほか一三都市の指定について同年四月一日付け施行が認可された。しかし、国の指定は認可されても、具体的な実施計画の認可は、あらためて県の都市計画地方委員会の審議を通して国へあげるしくみになっていた。そこで内務省は長野市にたいしては、三ヵ月以内に「都市計画区域並びに地域設定」の資料を提出するよう指令し、さらに県にたいしては、県の都市計画地方委員会の構成として長野県会より二人、長野市会より三人、松本市会より若干人、県関係高等官および学識あるものから五人、これに長野・松本両市長を加え、知事が会長となり長野市助役が委員会幹事となるよう指令した。これをうけて長野市が提出した実施案はつぎの一五項目であった。

  ①都市計画予定区域図

  ②人口増加図表

  ③市町村別戸数増加図表

  ④市町村別人口密度表

  ⑤人口密度増加図表表

  ⑥時間帯図

  ⑦交通機関配置図

  ⑧河川配置図

  ⑨上水下水配置図

  ⑩風向図および風速図

  ⑪工場統計表

  ⑫死亡率統計表

  ⑬建物用途別現況図

  ⑭公園その他配置図

  ⑮国府県税および市町村税表

 しかし、これら実施案の認可は容易でなく、さらに数年を要することになる。その後、都市計画調査委員会が調査研究した主な案件はつぎのようである。

 1 都市計画調査案件

(1) 中央道路に電車布設の可否

(2) 湯福川の川敷整理および高土手撤去に伴う地元出願の道路新設路線の選定

(3) 康楽寺墓地移転問題

     ・三輪横山地籍への移転案、地元の反対にたいする対応

 (4) 新設道路に標柱建設の件

 2 都市計画の区域決定

(1) 合併による全市域だけでなく、大豆島村・安茂里村が希望すれば都市計画区域にふくめる案

・大正十五年二月十九日内務大臣の諮問により、大豆島村は同意、三月末安茂里村も同意する。

・翌昭和二年(一九二七)一月二十日長野市ほか安茂里村大豆島村を本市都市計画区域とする公布がある。

(2) 同年十月十日より、市街地建築物法適用区域に指定(勅令第一五四号による)の公布がある。

 3 鉄道踏み切り問題

 これは都市の進展上重要案件であるが、巨額の費用のため、実現は容易でなく、都市計画事業としては適切な良案がなく、調査研究中とする。七瀬および中御所の二ヵ所は交通頻繁のため、速やかな改良を要するが、せめて七瀬だけでもと大正十四年以来県・鉄道省に陳情して、ようやくガードに改良が内定し、工事は鉄道省、道路は県が施行しその半額を市が負担する。


写真10 昭和初期の長野市。右手前の大建築は県庁と県議会議事堂 (昭和4年『長野市勢要覧』より)

 このように数年をかけて調査研究し必要書類を提出しても、なかなか実施認可とならなかったが、昭和二年の春、内務省都市計画局第一部長に先の山田博愛博士が就任すると、にわかに状況がかわった。市は山田を嘱託として招聘(しょうへい)し実施計画案の作成を急いだ。それ以後山田は長野にきて書類作成の下案指導にあたった。そして長野市の都市計画を、これまでの大都市計画から小都市計画に転換し、基本方針は仏都から遊覧都市と位置づけ、将来の発展も考慮して商工業地域を設定する案とした。市ではこの案を基に若干の修正を加える程度で再調査をすすめた。そしてこれまでの案を縮小して外郭地域を除く成案をつくりあげ、三年六月県地方委員会を経由して内務省へ回付した。その後、内務省とのあいだに数度の修正があったが、長野市の案は県地方委員会への回付となっていった。

 昭和五年二月から三月までのあいだには、街路網や公園および地域等について、都市計画長野地方委員会の議決がなされ、同年六月十日内務省の最終認可があり、七月一日よりの施行が決定、それぞれの具体的事業が実施に移されることとなった。その主なものは、①市域の道路網や公園の整備、②長野飛行場の用地買収、③土地区画整理、④市営水泳場、⑤市営野球場、⑥武徳殿の改築移転、⑦弓道場の新築、⑧長野警察署の新築等である。なお、これら事業の経費負担は、国庫補助二割、地元受益者負担三割、特別税五割というものであった。ところが、これら膨大な都市計画事業は、このように国や県による経済的補助が乏しかったので、事業を実施にうつすことは困難であった。しかし、ときを同じくして恐慌による失業応急事業や農村振興土木事業の補助が可能になったため、とくに道路網の整備事業は路線と場所により、恐慌関係の補助事業に切りかえたり、あるいは併せて遂行することになった。