市制施行記念と市徽章・市旗等の制定

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明治四十年(一九〇七)四月、長野市は市制施行十周年を迎えた。市(市長鈴木小右衛門)はこれを記念して市徽章の制定や記念絵はがきを発行した。自治体の徽章制定については、とくに法的な規定はないが、このころから市歌や村歌などとともに各市町村で制定する風潮がみられた。

 明治四十年七月、市は初めて市の徽章(図1)を制定した。外側の星印は漢字の草書体「長」の字をデザイン化したものであり、中央の模様は平仮名の長い「の」の字を四(し)個並べて「ながのし」を意味したものである。そしてこの徽章は「幕提灯(ちょうちん)其他市庁用ノ物品ニ之ヲ専用ス」とされた。


図1 明治40年7月制定の市徽章
(『二十年間の長野市』より)

 この市徽章の寿命はみじかく、はやくも大正四年十月には図2のように改正され「本市ノ徽章ヲ左ノ如ク定メ幕提灯其ノ他市庁用ノ物品ニ之ヲ使用ス」と規定し、中央部分の平仮名四個が一個に改められた。前のものは外側星の「長」と中央平仮名の「ながのし」で「長」にダブリがある点を改めたものである。


図2 大正4年10月改正の市徽章
(『長野市例規類集』第四類雑より)

 明治四十一年六月には、さらに市議会議員用と市吏員用の提灯使用についてつぎのように制定された。

第一条 本市議会議員及ビ有給吏員ノ役用提灯ヲ左ノ通リ定メル。

第二条 役用提灯ハ本人職務上ノ場合ニ限リ使用スルモノトシテ他人ニ貸与スル事ガ出来ナイ。

第三条 役用提灯ハ市ヨリ之ヲ貸与ス。其ノ職ヲ退クトキハ返納スルモノトスル。

第四条 棄損亡失シタトキハ、弁償セシムル。但シ、役用上棄損シタトキハ此ノ限リデナイ。

(『長野市例規類集』)

図3 明治41年6月制定の市役用提灯
(『長野市例規類集』第三類規程より)

 この市徽章は、その後水道施設や消防器具など庁用物品に使用され、戦後の大合併まで長くつづいた。

 大正六年市制施行二十周年には、四月一日記念式典と祝賀会を挙行(市長牧野元)し、そのさい、記念として市内各区より拠金し、城山の長野公園に雪見形石灯籠(どうろう)一台、記念公園(城山館前)に春日灯籠一台が建設された。また同年五月には市制施行以来の市政の歩みをまとめた『二十年間の長野市』A5判三一一頁がはじめて編集発行された。

 このあと大正十二年七月一日(市長丸山弁三郎)、吉田町、芹田村、古牧村、三輪村の編入合併がおこなわれ、市域が拡大された。

 昭和二年(一九二七)市制施行三十周年記念には、同年三月八日まず長野市告示第九号で「本市々制ノ実施ハ明治三十年四月一日ナルヲ以テ永遠ニ之ヲ記念センガ為メ毎年四月一日ヲ市制施行記念日ト定ム」と規定した。つづいて同第一〇号で「本市市旗ヲ左ノ如ク定メ市制施行記念日其ノ他市ノ祝日ニ之ヲ掲揚ス」として初めて市旗(口絵写真参照)を制定した。市旗の規格等は図4のようである。


図4 昭和2年3月制定の市旗
(『長野市例規類集』第四類雑より)

 同年四月一日記念式典挙行、五月末には市が『最近十年間の長野市』A5判一六三頁を編集発行した。さらに、昭和十二年には、市制施行四十周年を記念して『昭和初十年の長野市』の編集発行を企画したが日中戦争の勃発等により、実際の発行はおくれて昭和十五年十一月十五日(B5判一八六頁)であった。