第一次憲政擁護運動と長野

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大正元年(一九一二)十二月五日、西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は陸軍二個師団増設問題にかんし、陸軍大臣が辞職したことにより総辞職に追いこまれた。これをうけて同月第三次桂太郎内閣が発足したが、陸軍と長州閥(ばつ)の動きにたいして、憲政擁護と閥族打破の運動が全国に急速にひろがっていった。

 長野県では西園寺内閣が総辞職する前から、松本商業会議所などに内閣支持の動きがあった。大正元年十二月十三日、政友会の南北信支部の役員・県会議員は長野市で会合した。両支部は、西園寺内閣が陸軍の増師計画を認めなかったのは、国民が期待するところと一致したからであるとして、目的が実現することを期す、と決議した。十二月二十八日には、県選出代議士八人が東京の赤坂で会合し、憲政擁護・閥族打破のためにどんな手段・方法をも講ずることをきめた。しかし、国民の憲政擁護運動の盛りあがりにたいし政友会幹部が態度を明確にせず、長野県支部も模様ながめであったために、二年一月十四日の『信毎』は、「日和見の日和見-長野県政友の態度-」と題した社説で、憲政擁護における閥族対国民の戦いにおいて、「県民大会は閥族に対する一種の示威運動」であるが、「其威を示すに於て他の力を借りなければ出来ないと云ふのは意気地」がないと批判した。

 このような批判をうけて、政友会県支部は立憲国民党と連合して、憲政擁護県民大会を各地で開催した。北信の県民大会は大正二年二月一日、長野市の城山館蔵春閣で開催された。会場に入りきらない市民はテーブルの上に立ってかろうじて場内をのぞきこむという盛況のもとに、午後一時、政友会北信支部幹事の山本慎平(聖峰)が開会を宣した。小島相陽が座長となり、官僚政治の弊害を根絶すること、現代議士の立憲的行動を支援することの二項を決議した。つづいておこなわれた演説会では、小坂順造、風間礼助らの演説ののち、尾崎行雄が「目下の政況」という演題で演説し、「国民は大に奮起して閥族を打破」すべきであると結んだ(『県史近代』③(1))。

 城山館では県民大会と並行して、憲政擁護同志記者大会が開催された。信濃毎日新聞社主筆桐生悠々(きりゅうゆうゆう)が座長となり、憲政擁護・閥族打破の主張をできるだけ広げること、主義を同じくする代議士の選挙にさいして支援すること、県下各地で憲政擁護の演説会を開くことなどを決議したあと、県民大会に合流した。午後六時から権堂の千歳座で、同志記者大会の呼びかけにより憲政擁護政談大演説会がひらかれた。厳寒にもかかわらず警察に注意されて開会前に満員締めきりとするほど聴衆がつめがけた。信濃毎日新聞、長野新聞、報知新聞支局、北信新報などの記者の演説が相ついでなされたのち、県選出代議士、尾崎行雄の演説があった。


写真11 城山公民館入り口に掲げた歴史を示す城山館の看板

 大正二年二月十日、衆議院の議場は数万の民衆に取りかこまれた。桂首相は十一日に内閣総辞職の予定で議会を停会したが、議会停会の知らせに詰めかけていた民衆は怒り、警察や桂内閣擁護の新聞社を焼きうちした。このため軍隊が出動して十一日にようやく鎮圧した。国民の憲政擁護・閥族打倒の運動により桂内閣は総辞職に追いこまれ、かわって政友会の支持をえた山本権兵衛内閣が二月二十日に成立した。

 政友会では、薩摩閥である山本内閣の成立に協力した幹部を、尾崎行雄らが批判して政友会を脱会し、新たに政友倶楽部を結成した。明治四十五年(一九一二)五月の第一一回総選挙で長野県から選出された代議士は、政友会八人、中央倶楽部、無所属各一人であったが(表8)、政友会所属の八人のうち六人が政友倶楽部にくわわった。このなかで現長野市域を地盤にしていたのは、笠原忠造・風間礼助・小坂順造の三人であった。その後政友倶楽部はしだいに国民党と提携を深めたため、小坂順造は政友会へ復帰した。


表8 衆議院議員選挙の当選者一覧

 大正二年末から三年二月にかけて、全国で大規模な営業税撤廃運動がおこった。営業税法では収益ではなく、資本金・売上金・従業者数などを基準として課税されたため、課税額が営業実績とかけはなれる場合がおこり、商工業者の反対が強かった。長野県では三年一月上田商業会議所が撤廃運動を開始し、松本市・長野市・松代町(長野市)・飯田町(飯田市)へひろがっていった。同年二月八日午後三時から、営業税の全廃をもとめる県民大会が、一〇〇〇人余の参加のもとに長野市の城山館で開かれた。諏訪部庄左衛門が座長になり、営業税の全廃と県選出の代議士に全廃への賛同をもとめていくことを決議した。上水内郡選出の県会議員一由慎吾から、営業税全廃に賛成しない代議士には辞職を勧告し、今後は支持しないことを追加するよう提案があり、決定された。政友会は営業税の全廃に反対しており、北信を地盤とする小坂順造・笠原忠造ら政友会所属の代議士への政治的な圧力となった。

 長野県では桂内閣が倒される前後から、非政友派の立憲同志会の結成がすすめられ、大正二年三月、屋代町(更埴市)で埴科郡青年同志会が、一二〇〇人余を集めて発会式をおこなった。幹事に春日俊文・滝沢志郎らを選び評議員三四人をきめた。式後の政談演説会では若槻礼次郎らの演説があった。立憲同志会の南信支部、北信支部は二年十一月にあいついで結成された。北信支部の発会式は十一月二十二日に長野市城山館蔵春閣でおこなわれた。支部には矢島浦太郎、矢沢頼道、一由慎吾らが参加し、規約・役員を決定したあとで加藤高明らの演説があった。四年一月には南北支部の協議会を長野市権堂の青雲亭で開催し、長野市から矢島浦太郎、上水内郡から伝田清作、一由慎吾、更級郡から風間礼助、埴科郡から矢沢頼道、若林忠之助らが参加して、非政友で連合するとともに、三月実施の第一二回総選挙に南北信で各三人の候補者を立てることもきめた。立憲同志会は二月十八日、司法大臣尾崎行雄を招いて松代町の海津座で政談演説会を開いた。ほかに前代議士の風間礼助・岡部次郎の演説があった。いっぽう政友会北信支部は、大正四年三月五日に大会をひらき、候補者として小坂順造、笠原忠造、塩川幸太の三人を推せんした。このあと更級郡からは玉井権右衛門が立候補した。

 衆議院議員の選挙区は市部の長野市と郡部にわかれ、長野市は定員一人、郡部は全県一区の大選挙区で定員は九人であった。上水内郡を選挙地盤とする小坂順造は、二月中旬以降北信各地をめぐって、地区有力者の集会で演説をおこなった。三月中旬からは吉田村・長沼村・川田村・朝陽村・芹田村などで、支持者の応援演説も加えた政談演説会をひらいて運動を展開した。

 長野市では政友会から前職の笠原忠造が立ち、立憲同志会は候補者難であったが、西筑摩郡(木曽郡)選出の県会議員大沢辰次郎を擁立した。大沢派は選挙戦のなかで、営業税全廃問題で笠原代議士が冷淡な態度をとったと批判した。笠原派は営業税全廃にこだわれば「減税すら覚束(おぼつか)なき破目となる可き事情を察知」したので、減税額を多くするほうが得策だとして運動したと弁明につとめた(『信毎』)。長野市では営業税全廃をめぐる主張が選挙の争点の一つとなったのであった。投票は三月二十五日に実施されたが、長野市では大沢辰次郎が五七四票を獲得して政友会の笠原忠造を破って当選した。全県では政友会五人、立憲同志会四人、中正会一人で立憲同志会が大きく躍進し、全国でも政友会をぬいて第一党となった。

 大正五年五月、立憲同志会と立憲国民党が合同して信濃倶楽部を上田町(上田市)で結成した。同倶楽部は六年三月二十五日に松本市で総会を開き、憲政会南信支部を結成した。翌日には憲政会北信支部が発会式をあげた。北信支部では矢島浦太郎が支部長に就任した。第一三回総選挙の投票に先立って県は四月十日、開票などの選挙会の場所・日時、投票所の監視員などを告示した。投票日は四月二十日で、選挙会の会場は県庁で、長野市は四月二十四日、郡部は翌二十五日であった。監視員には各郡市あたり一人の県官吏と、数人ずつの郡書記が任命された。開票の結果、政友会六人、憲政会三人、立憲国民党一人が当選した。郡部の選挙区で北信を地盤として当選したのは南沢宇忠治と小田切磐太郎で、得票数のうち上水内・更級・埴科・上高井四郡の得票がしめる割合は、南沢が約八四パーセント、小田切が約六九パーセントとなっていた。投票率は四郡あわせて約九五パーセントと高率であった。長野県の選挙違反は三八八件・一五〇三人で全国第一位という状況で、更級郡・上水内郡など選出の県会議員四人が違反に問われ、裁判所の判決で失格となり辞職した。

 明治末から大正なかばまでの、衆議院議員総選挙の政党別議席数の推移をみると、優位を保っていた政友会がしだいに減少し、立憲同志会・憲政党が対抗勢力として伸長してきており、政界は二大政党の時代へと移りつつあった。この変化の底流には第一次憲政擁護運動や営業税全廃運動などに参加していった県民の政治的な自覚の成長があった。