米騒動で寺内正毅(まさたけ)内閣が倒れたあと、大正七年(一九一八)九月二十九日、政友会総裁原敬を首班とする内閣が成立した。第一次世界大戦後、普通選挙制度の実現をもとめる運動は、普通選挙期成同盟会の活動再開や友愛会などの活動により、全国的な大衆運動へひろがっていった。
大正七年十二月から八年三月まで開かれた衆議院の第四一議会で、選挙権の資格が直接国税一〇円から三円へと引き下げられ、選挙区も大選挙区制から小選挙区制に変更された。八年三月、雑誌『信州』は論説記事で第四一議会の重要問題は選挙法の改正であるとし、各政党は納税資格のみを問題にしており、選挙権の拡張にきちんとした意見があるとは思えず、むしろ自党の存立がさきで、政友会が主張する小選挙区制はその代表であると批判した。また、政界が浄化されないのは、納税資格により選挙人を制限しているからであり、いまや選挙権のない国民の政治的な見識や国政にたいする考えの進歩はいちじるしいので、納税資格制限をただちに撤廃し、議員選挙の資格をあたえるべきであるとした。国民はいっせいに立って普通選挙を要望し、これに政党をしたがわせるべきである、と結んでいる。
大正八年三月十六日付けの『信毎』は、十六日に開催が予定されていた埴科郡の普通選挙演説会が、議会閉会後の四月上旬に延期になったことを報じた。開催地は松代町、屋代町(更埴市)、坂城町の三ヵ所で、弁士は普選運動家の黒須竜太郎、大阪市選出の衆議院議員の今井嘉幸や風間礼助らを予定していた。八月二十八日には、長野市の蔵春閣で八〇〇人余の聴衆をあつめて、普通選挙演説会が開かれた。今井嘉幸は、「普通選挙と時代の要求」と題して「信州は廿年以前から普通選挙につき充分の自覚」をもっていて、わが国における普通選挙のエルサレムとして崇拝されるものと思われるとのべ、つづいて、人口にしめる有権者の割合は、「本年より納税三円まで選挙権を拡張することになってさへ、僅(わずか)に五パーセント以下」であると、普通選挙制の必要を説いた(『県史近代』③(1))。
大正八年九月政友会は、南北信の両支部を合併して県支部を創立し、長野市に支部、各郡市に倶楽部を設置した。これに先立って開催された南信支部大会では、県独自の問題として松本鉄道の敷設と南北信を連絡する交通機関の完成を期すことを決議した。いっぽう憲政会も九月に南北信の両支部で大会を開き、全国的に取りくむ問題として、普通選挙をすみやかに実現して、民衆の権限を拡充することなどを決議した。普通選挙制の実現をめぐって、政友会と憲政会・国民党のあいだにはへだたりがあった。
大正八年十二月第四二議会が開かれた。九年二月十一日、東京では普選実現のため一一一団体、数万人による大示威行進がおこなわれた。憲政会は二五歳以上の、国民党は二〇歳以上の男子に選挙権を与えるという普選案であった。二月十四日、普選案が議会に上程され、討議中の二十六日原敬内閣は議会を解散した。政府は、大正八年の第四一議会で選挙権を拡大して、まだ一回も選挙をおこなっていないこと、今回の選挙制度の改正案は急激でわが国の実情にそわないこと、などの解散理由を発表した。普選運動は全国へ拡大し、長野県でも九年三月十四日、上田市で小県郡の普通選挙期成同盟会の発会式がおこなわれ、二〇〇〇人余の参加者のもとに、現内閣の交代と総選挙での普選派の当選を期すことを決議した。
大正九年四月七日、県知事は郡市長会において、第一四回総選挙の厳正な執行について訓示した。政府の解散理由をのべるとともに、普通選挙は階級制度の打破を目的としており、健全な国民の希望とは認められず、今回の選挙は改正選挙法の第一回の施行で、国論がどうあるのかをみる重大な選挙のため、公正・厳正な実施が必要であるとしたが、政府の立場を援護するものであった。投票日直前の五月八日、長野市権堂の相生座で、長野市政友派の政談演説会がおこなわれた。新愛知新聞主筆となっていた桐生悠々は、普通選挙問題に関して、普選はすでに議論を終え、実施時期だけが問題となっているにもかかわらず、憲政会が内閣は普選を理解していないと攻撃するのは悪意である、と主張した。
大正九年五月十日の投票日当日、『信毎』は、「投票上の注意」を掲載した。投票時間は午前七時から午後六時までであること、今回から印鑑は不要となったこと、入場券はできるだけ持参すること、候補者名は漢字でなくてもよいがまちがえないように書くことなどであった。県全体の有権者数は、前回の大正六年の第一三回総選挙時は四万一四三二人であったが、今回は一〇万二一〇二人となり、約二・三倍へ増加した(表9)。投票率は一区の長野市が約九〇パーセント、三区上水内郡が約八〇パーセント、上高井郡をふくむ四区が約八四パーセント、五区更級・埴科郡が約九七パーセントで、県全体では約九四パーセントであった。選挙法の改正により有権者数が増加したため、新たに選挙権を獲得した層の投票率が注目された。上水内郡では直接国税一〇円以上の有権者の投票率は約八五パーセント、一〇円未満の有権者は約七五パーセント、上高井郡では一〇円以上が約八五パーセント、一〇円未満が約八一パーセントとなっていた。
選挙法の改正により県下は市部が長野市・松本市の二区、郡部が一〇区で計一二の小選挙区となり、定員は第七区の東筑摩・西筑摩郡が二人で、計一三人であった。党派別の当選者数は政友会六人、憲政会五人、国民党一人、無所属一人で、現長野市域の四選挙区では政友会三人、憲政会一人という結果であった(表10)。全国的には政友会が多数をしめたが、長野県については、大正九年五月十二日付けの『信毎』は「我が信州に於る政界記録破り」と題して政友会の停滞と憲政会の躍進を報じた。県民の普選実現への期待を反映したものであり、「本県政戦史上に一大変化」を与えるものであった。
総選挙終了後、埴科郡寺尾村の塚原勇作ほか一四六人は、貴族院議長にあてて普通選挙実施の請願書を提出した。政府は普通選挙について討論をつくさず、選挙にあたっては「官権金力ノ濫用ニヨリ普通選挙ノ主張者」を圧迫して、「国民ノ自由意志ヲ蹂躙(じゅうりん)」しているので、貴族院において普通選挙の実現をはかるよう請願した(『県史近代』③(1))。大正九年十月二日、上田市では信濃黎明会(れいめいかい)が発会式をおこない、普通選挙促進の活動などに取りくんでいった。つづいて十一月二十三日には、日里村・栄村(中条村)、南小川村・北小川村(小川村)、七二会村、小田切村の青年たちが上水内黎明会を発足させた。上水内黎明会は、「意志堅固ニシテ自発的精神」のある青年をもって組織し、「崇高ナル理想ヲ提ゲテ新文化建設向上」を実現し、「社会人士ヲ黎明ニ導」くことを主な目的とした。この目的の達成のために、会の事業として雑誌『黎明』の発行、巡回文庫の設置、講演会の実施などをあげている(『県史』同前)。会の理事には七二会村から山本剛・小林満睦、小田切村から酒井義博・宮尾義雄が選ばれて就任した。地域の青年のなかから、新しい時代の息吹に応じた組織が生みだされていった。十一年一月、長野市の大本願明照殿に県下の各宗派の代表者三〇人余が集まり、仏教連合会の支部を設置することと僧侶の参政権獲得運動をさかんにすることをきめた。三月五日にはやはり大本願で、県下各宗派代表五〇人余が参加して仏教連合会長野県支部の総会を開いた。県支部の規則をきめるとともに、僧侶にたいする各種被選挙権の制限の撤廃を決議し、植原悦二郎らの演説があった。
大正十一年十二月に召集された第四五議会で、憲政会・国民党・無所属団は統一の普通選挙法案を共同提出したが、十二年二月二十七日否決された。十二月二十七日に山本権兵衛内閣が総辞職し、十三年一月七日に枢密院議長清浦奎吾(けいご)を首班とする内閣が、貴族院の援助で成立した。一月十日、政友会・憲政会・革新倶楽部の有志は、これを特権内閣として倒閣することを決定し、第二次憲政擁護運動が全国へひろがっていった。一月三十一日、衆議院は解散した。政友会は内閣支持をめぐって分裂し、支持者は脱党して政友本党を結成した。長野県第三区選出の小坂順造らは政友本党へくわわった。二月十七日、長野市では憲政会派が蔵春閣で、長野同志会の創立総会をひらいた。松橋久左衛門が座長となり、国民無視の特権内閣を倒し憲政擁護の目的を貫徹すること、普通選挙の即時実現を期すこと、また長野市にかんして、市政を刷新し商工業の発展をはかり農業政策の確立を期すこと、大正十二年の一町三ヵ村との合併後の交通機関の整備や文化施設の完成を期すことなどを決議した。
大正十三年五月十日の総選挙にそなえて、二月には長野市で池田宇右衛門らが長野立憲青年党を結成、四月には上水内農政青年団が発会式をあげ小坂順造らが演説した。第三区の上水内郡では、前回当選した花岡次郎代議士が死去したため、十二年十一月の補欠選挙で政友会の宮沢長治が選出されていた。この宮沢が立候補せず、前回長野市から選出された小坂順造が上水内郡へ移り、政友本党から出馬した。憲政会からは、普通選挙の即時実施、綱紀の粛正、国民負担の軽減などを掲げた松本忠雄が立候補した。第一五回総選挙の投票率は全県で約九六パーセントで前回より高率であった。投票の結果、政友会二人、憲政会五人、革新倶楽部一人、無所属五人が当選した。のちに無所属議員は政友会・憲政会へ二人ずつ移り、政友会四人、憲政会七人となって、憲政会が優位に立った。全国では護憲三派の憲政会・政友会・革新倶楽部が二八六議席を獲得して圧勝した。
なお、第一区の長野市では、政友会の笠原忠造がわずかの差で憲政会の伝田清作を破って当選したが、選挙人名簿に不備があったため、憲政会関係者から笠原の当選無効の訴訟があった。七月十日に丸山弁三郎市長が責任をとって市会で辞意を表明し、選挙人名簿作成の責任者である庶務課長・税務課長が辞職した。市の区長懇話会が調停に乗りだし、市長の留任を懇請すること、近年市会の政党色が濃厚になり、市政を政争の手段にして市の発展を阻害するおそれがあるので反省を促すことなどを決議した。区長懇話会は市長・憲政会幹部を訪問し、市会とも懇談し各方面に市長留任を要請した。七月三十一日、丸山市長は市会・区長懇話会・市連合青年会代表者との会見の席上で辞意を撤回した。十月に訴訟が取りさげられこの問題は一段落したのである。
総選挙の結果により、大正十三年六月七日清浦内閣は総辞職し、護憲三派による憲政会総裁加藤高明を総理大臣とする内閣が成立した。第五〇議会は十二月二十四日に召集され、普通選挙法案は、十四年三月二日に衆議院で三月二十六日貴族院でそれぞれ修正可決され、二十九日の両院協議会をへて成立し、五月五日に公布された。二五歳以上の男子に選挙権を認め、納税による制限を撤廃した普通選挙法が実現した。しかし、生活扶助をうけるものや住居が不定のものなどの最貧困層が選挙権から除外され、婦人参政権も認められなかったのである。
第一次世界大戦以後、県会議員選挙は大正八年九月と十二年九月の二回実施された。県下の人口の増大により議員定数は、八年七月にそれまでの四二人から四四人へと二人増加した。北佐久郡・下伊那郡・上高井郡で一人増、南安曇郡で一人減であった。十二年七月には、一町三ヵ村と合併した長野市、諏訪郡・西筑摩郡が一人増、上水内郡・埴科郡が一人減となり、この結果北信二一人、南信二三人となった。八年九月の県会議員選挙における長野市および現長野市域四郡の党派別議員数は、政友会六人、憲政会四人、中立一人で(表11)、県全体では政友会二七人、憲政会一四人、中立三人であった。十二年八月埴科郡では「青年党政治結社」の埴科黎明会が発足し、「当面の県会議員選挙に理想的候補者」を公認することに取りくんだ(『信毎』)。九月二十七日の県会議員選挙に埴科南部から憲政派で南条村(坂城町)村長の滝沢志郎が村長を辞職して出馬し、埴科黎明会は滝沢を支持した。選挙の結果、全県で憲政会二一人、政友会一八人、中立五人となり、県会で政友会は過半数を割った。