等級選挙制度の廃止と市町村民

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大正二年(一九一三)十一月、更級郡長津崎尚武は『更級時報』に、「町村不振の原因」と題した論説を発表した。町村自治の不振の原因として、①町村民が自治にたいして無理解であること、②町村吏員の在職年限が短いこと、③町村に積極的な事業が少ないこと、④町村の有力者や財産家が保守的であること、⑤教育施設などの町村負担が年々増加してきているにもかかわらず町村が狭小で経営が困難になってきていること、などをあげていた。また、三年八月には、更級郡下の町村税の滞納が増加したことにかんして、町村民に自治心が不足しているとともに、町村が滞納者を督促しないのは町村長の職責怠慢であると述べている。町村会議員の等級選挙制度による選出や、町村長を住民が直接に選べなかった当時にあって、郡長が町村自治の不振を主張しても、一般町村民にとって身近な問題にはなりにくかった。市町村会議員の有権者数の割合をみると、明治末から大正初期にかけて、県全体の人口の一〇・五パーセント(表12)にすぎなかった。


写真15 更級郡自彊会発行の『更級時報』 1号は明治40年4月発行


表12 市町村会議員選挙の有権者数の推移

 明治三十七年(一九〇四)三月、上水内郡大豆島(まめじま)村の大豆島区では、区内の円満をはかり利益を増進することを目的とした大豆島共和会を設立した。区内を四組に分け、各組から幹事一人、評議員八人を選出し、この役員が会の運営にあたった。主な活動は会の目的達成のために、村内外の各種選挙の候補者を選定することであった。大正八年十月三日、郡会議員候補者選定の件で評議員会を開催した。前日に幹事四人が村内の風間区へおもむき、大豆島区が推せんする候補者へ賛同するよう交渉した経過が報告された。その後両区の交渉は数回におよんだが、風間区でも郡会議員候補者を推せんしたい意向があり、交渉はまとまらなかった。九年度の共和会の主な活動をみると、三月に前幹事から引きつぐと同時に、吉田町ほか六ヵ村衛生組合会の評議員候補者の選定をおこない、翌年三月まで活発に活動している(表13)。十三年九月に上水内郡の県会議員の補欠選挙が実施されたが、大豆島区から久保田勇太郎を推せんし、当選をはたしている。また、村会議員の候補者の選定については、立候補希望者から申しでをもとめ、希望者と折衝(せっしょう)して各組二人ずつ計八人を選考することになっていた。ただし、調整がうまくいかないときは各候補者の任意の行動にまかせる、としていた。このように町村や区の有力者を中心として、町村民の代表者を選出していく仕組みが多くの町村にできていた。


表13 大豆島村共和会の主な活動

 大正九年二月五日付けの『信毎』は、市制・町村制改正の政府案の要点を掲載した。①選挙資格の直接国税二円納入を廃止して市町村税納入とすること、②居住期間を半分の一ヵ年とすること、③等級選挙制度を廃止すること、などをあげ、従来の市の三級制、町村の二級制の等級選挙制度について、人ではなく金を主体として選挙権を与えたもので、有産者の意のままになる議員が選出されてきたため、社会的な弊害を解決する政策の必要を感じない階級によって自治機関が支配されてきた、と報道している。さらに政府案については選挙権を二五歳からとすることや女性が除外されていることについて、徹底を欠いていると批判した。二月十一日付けの同紙は、長野市の市会議員の改選は九年六月二日に実施する予定で、例年ならば候補者がさかんに運動しているころであるが、選挙法改正の可能性があるため、候補者は模様ながめの状況であるとし、市民は等級をなくした選挙制度の実施に絶大な希望をもっている、と報道していた。また、新しい制度が実施されれば、市会議員の多数は資産のない階層から選出されるだろう、と予想していた。この年はけっきょく市制・町村制の改正はおこなわれず、六月二日から三級制による最後の市会議員選挙が実施された。二日の三級選挙では最高一六〇票、最低九六票、三日の二級選挙では最高三三票、最低二〇票、四日の一級選挙では最高六票、最低二票の得票で各級から一〇人ずつの議員が選出された。

 大正十年四月、市制・町村制が改正された。国税の規定が廃止され市町村税を納めるもの全員に公民権がみとめられた。等級選挙制度は、市では三級制から二級制へ変更され、町村では二級制が廃止された。十二年二月十一日付けの『信毎』は、改正後の状況について、有権者数は郡部で五割増、市部では約三倍にたっし、県全体の人口に占める比率は一三・四パーセントに増加し、議員の職業別では一〇町歩(約一〇ヘクタール)以上の大地主が激減し、銀行員・会社員・医師・弁護士などの自由業がふえた、と報道した。その後有権者数は増えつづけ、普通選挙法公布後の昭和二年には全県人口の二〇・一パーセント(表12)と増加した。

 大正十三年六月、長野市では二級制による最初の市会議員選挙がおこなわれた。定員は三六人で、二級一八人の地区別は、旧長野市一五人、吉田・古牧・芹田各一人、同じく一級一八人は、旧長野市一二人、三輪・古牧各二人、吉田・芹田各一人であった。六月一日は二級選挙人の投票日で、城山蔵春閣が投票場となった。投票場は午前一〇時ごろから押しよせた有権者で大混雑におちいり、二ヵ所の出入り口には五、六百人ずつが集まった。警察官の制止も聞かず殺到したため、出入り口のガラス窓を破損するほどの騒ぎとなった。当日の有権者は六七九六人で、投票率は約九二パーセントであった。投票のようすを取材した記者は、城山一帯の光景を関東大震災当時の上野公園の避難所をみているようで、法被(はっぴ)姿のものや人力車屋が仕事着のままで投票する姿から「普選気分がする」と述べている(『信毎』)。一級選挙人による投票は六月四日実施され、投票者数は一九二四人であった。選挙の結果党派別の当選者は、二級では憲政会八人、政友会七人、中立三人、一級では政友会一〇人、憲政会五人、中立三人であった。得票数は二級の最高が五四七票、最低が一九四票、一級の最高が一五七票、最低が七五票となっていた。

 埴科郡寺尾村では大正十四年四月五日、改正町村制にもとづく村会議員選挙をおこなった。当選した一二人は前職一人、新人一一人で、前職は前回十年四月の二級選挙から選出された議員で、新人中の二人は前回の二級選挙で落選したものであった。職業・身分をみると前回は農業七人、士族五人であったが、十四年の職業では農業九人、商業二人、工業一人となっていた。選挙後の村から埴科郡長への報告では、改正選挙制の利点として「権利ヲ機会均等ニ得タルニヨリ、人心ノ緩和」が認められ、一般村民は「改正市町村制ニヨル選挙ノ実施ヲ歓喜ス」と記載されていた(『自大正十四年 至 村会議員選挙書類 寺尾村役場』)。

 明治三十年代から市町村長の横のつながりをもとめて組織化がはかられていった。明治三十四年、第一回の長野市と県下の大きな町村長の会が長野市で開催された。市町村の行政事務の刷新・整理を主な目的としたこの会に、四十年には県下の六三ヵ市町村が加盟していた。三十九年の大会は中野町で開催された。開催に先立って県は、事務上の打ち合わせや法令の研究を目的とした会であるにもかかわらず、近年では法令の改廃を論議し、監督官庁に迫る弊害がみられるとして、会の自粛を通知した。

 県域をこえた市長会の開催もみられた。大正六年六月、長野市で高田市(上越市)・新潟市・長岡市・高岡市・富山市・金沢市・福井市・松本市・長野市の九市市長会がひらかれた。松本市・新潟市は、市会議員の選挙権拡大について、市税納入の二五歳以上の男子すべてに選挙権を認めるという提案をし、市長会はこれを可決している。

 大正九年十二月十三日に、長野市城山の蔵春閣で、県町村長会の創立総会が開催された。会の目的は、町村相互の連絡をはかり自治体を向上発展させることで、会長には上伊那郡赤穂村村長の福沢泰江が就任した。十三年三月の県町村長会では、①地方自治権の拡張と行政整理の徹底をはかるために、地方長官の更迭が激しく弊害が大きいので任期を制定すること、②郡役所を廃止すること、③町村長の権限を拡大することなどを要望した。また、財政・税制の整理と負担の均衡・軽減をはかるため、地租・営業税を府県へ移すこと、小学校教員俸給の国庫負担額を六〇〇〇万円に増額すること、町村が電気事業をおこなえるようにすることなどの考えを表明した。町村の要望をもとに町村長会が結束して行動する時代を迎えたのである。