長野県庁舎・県会議事堂の焼失と再建

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明治四十一年(一九〇八)五月十日午前三時すぎ長野県庁舎が出火全焼した。残ったのは、わずかに巡査教習所・肥料検査所・度量衡検査所・県農会事務所・土蔵三棟と半焼の警察部付属の分析所だけであった。原因については、二、三の説が推測されたが判明はしなかった。

 この県庁舎は、明治七年に長野町袖長野(現信州大学教育学部構内の東がわ)に建築されたものであり、その西側隣接地には長野県尋常師範学校(寄宿舎も)が明治二十年に建築されていた。したがって火災現場には、消防隊はもちろん師範学校の教師や生徒などが消火活動や書類等の搬出に活躍した(『信毎』)。そのため、近隣の民家や師範学校への類焼は免れたが、その師範学校も一ヵ月後の五月二十二日に八棟が全焼し、つづいて六月十五日に本館など三棟を全焼した。この火災の原因は本校生徒による放火であった。

 県庁舎の全焼は、長野市の内外にさまざまな問題を巻きおこした。市内ではまず、焼失後の県庁執務(仮庁舎)の場所を決める必要があった。火災直後には、長野高等女学校、後町小学校、城山館が候補にあがったが、いずれも適当でなく、その後は、いったん南長野町聖徳の県会議事堂を仮庁舎とし、さらに同年秋には、九月から十一月十日まで市内城山で開催した一府十県連合共進会の終わりを待って、その施設の一つである参考館(のち商品陳列館)を仮庁舎として十一月十八日から県政の執務をおこなった。

 いっぽう、外にあっては、松本市や東筑摩郡を中心に、年来くすぶっていた県庁舎が県北部に偏在していることを修正するべきだという、いわゆる移庁論が再燃した。松本市では五月末市民大会を上土町開明座に開き「長野県庁を松本に移すを以て適当なりと認む、依って極力之が遂行を期す」ことを決議した。また、松本市会や東筑摩郡会でも同様に長文の意見書を内務大臣および長野県知事あてに提出した。このほか、七月南安曇郡三田村(堀金村)村会による移庁決議意見書、九月下伊那郡上郷村(飯田市)村会の同意見書など、中南信地方の市町村に移庁運動が再燃した。

 県庁舎の再建案は、四十一年十二月県会で大山知事が提出し、同月八日に審議された。移庁論が再燃している議場は緊張に包まれていた。議長は宮沢長治、県の原案は、建築費二七万七六五〇円で四十二年度から四十四年度までの継続事業というものであった。朗読のあと最初の質問者は諏訪の中村甚之助、要旨は「新庁舎は旧の位置に建てるか他に敷地を望むか」であった。岡田事務官が「旧敷地は僅かに三五〇〇坪に過ぎず狭隘であるから別の地にする」旨の答弁をすると、同議員から「本案は慎重の審議を要するので議長指名による九名の委員に付託するよう」発議があり、ほかに多少の反対はあったが、多数の賛成によって委員付託に決まった。審査委員は、北佐久の阿部四之助・埴科の矢沢頼道・上高井の勝山直久・更級の青木屯蔵・下水内の横田茂守・下伊那の上柳喜右衛門・上伊那の小池新衛・諏訪の土橋實也・北安曇の平林仲次郎で委員長は勝山議員であった。

 同月二十六日に委員会修正案が上程された。内容は、建築費二二万七七〇〇円で、四十二年度から四十五年度までの継続事業とするものであった。これは、原案よりも一年延長し、予算額を五万円ほど減額したものであったが、賛成多数で可決された。なお、この修正案の説明で敷地については、長野市から寄付を受けることがすでに含まれていた。しかし、この県会では、移庁運動とからんで松本市、東筑摩郡、諏訪郡などの議員から、大山知事不信任案の動議がだされ、議長の閉会宣言でおさえられるできごともあった。

 この県庁舎再建の敷地確保については、長野市が急きょ移庁論への対策として、県庁舎建築費五万円寄付に加えて、同敷地七〇〇〇坪代七〇〇〇円の寄付を決定したことによるものであった。そしてその位置は、長野市の新たな場所をえらび候補地案として、①南長野幅下(議事院の隣で土地は平坦で広いが低地)、②同妻科(議事院と監獄の中間で位置はよいが狭い)、③西長野上野原(長野中学校の隣で加茂神社裏の高地)の三ヵ所があげられた。しかし、同月二十四日の市会では審議の結果、県会議事堂の南方(南長野幅下、現県庁舎位置)と決定された。

 これにたいし、今度は地元市内の、西部派、北部派、南部派を名のる各地から建築場所の引きあい合戦がおこった。このうち西部派では、西長野加茂神社付近を主張した。理由は、防火上、瓜割り清水があり、加茂神社の敷地と合わせて千余坪を無代で提供する、というものであった。この水の条件をあえて出したことには相当の理由があった。当時まだ長野市には上水道がなく、県庁位置の決定には大きなウェイトをしめていたからである。北部派は城山付近を主張し、南部派は幅下付近を主張した。

 長野市が最終的に場所を決定したのは、四十二年三月で、位置は市会の原案による、県会議事堂の南方(南長野幅下)であった。こうして同年十二月六日新庁舎の起工式をおこなった。設計には県技師の野田六次ほかがあたり、建築は、いわゆるルネサンス式木造二階建てで、用材は帝室林野管理局から払いさげを受け木曽の檜材が主として使用された。東西の長さ三八間、南北の長さ三二間、高さ五間半、建物面積は一五〇九坪余(『長野新聞』)、屋根はスレート式石板石で葺かれ、窓は全部上下窓であった。知事室と警察部長室はとくに立派につくられ、付属建物には、衛生試験所・肥料検査所・度量衡検査所・巡査研修所・宿舎・倉庫などがつくられていた。最終工費は、途中に五千百余円の追加があり、約二三万二八〇〇円余であった。

 大正二年(一九一三)六月初旬には新庁舎が完成し、六月十日・十一日の両日一般市民に縦覧させ、十三日・十四日の両日に城山の仮庁舎から移転をおこない、同月十六日から新庁舎での執務を開始した。


写真16 大正2年10月完成の長野県庁
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 新庁舎の開庁式は、大正二年十月十日におこなわれた。長野市は、開庁式当日の祝賀については、以前から委員会(一〇人)を組織して準備した。それによれば当日は、三ヵ所の新道路開通式をはじめ、①一〇〇〇発の煙火、②二十余の屋台、③城山館での一大夜会、④大提灯行列、⑤市中の飾り物、⑥その他余興、などが計画されていた。


写真17 大正2年10月10日 寿町通り
県庁舎完成の祝賀大行列
  (塚田登所蔵)

 しかし、この県庁舎の再建にともなう長野市の負担は、あまりに大きく市財政はこれにより、非常な逼迫をきたし、全国第三の苛税市(苛酷な課税の市)となった。

 長野市では、この新庁舎の建築にあわせ、県庁に通ずる幾つかの新しい道路の取りつけが必要となった。このときあらたに開通したおもな新道路は、寿町・相生町・大正町の各通りであった。寿町通りは国道後町通りから県庁東門に通ずる道路で、もっとも早く大正元年につくられた。相生町通りは国道後町通りから裏権堂町に通ずる道路で同二年につくられた。大正町通りは南県町から県庁正門に通ずる道路で同二年につくられた。市ではこの三新道の開通式を県庁開庁式の前日、同年十月九日におこなった。

 開通式当日は、まず相生町に集まり、お練りの行列が午前一〇時に同所を出発し、令人(奏楽)につづいて祭主副祭主・市長・参列役員・そして道路請け負いの各組などが並び、大正町に出て、「県庁正門前の八幡川そばに設けられた祭壇で式をあげた。この間の市内各町々のにぎやかさは格別で二〇余の緑門(アーチ)が各所にたてられ、二丁いっては鼻をつかえ、三丁歩いてはまた緑門かというほど」であった(『長野新聞』)。このほかに県庁から妻科に通ずる道路もつくられたが、この開通は翌三年であった。

 ところで、この間の大正二年五月二十四日、県庁舎完成を目前にして、今度は県会議事堂が失火焼失した。原因は当時議事堂外部のペンキ塗りかえ工事担当(東京品川)会社職員の過失によるものであった。県の議事堂は、最初に明治二十年十二月南長野聖徳に建てられたが、落成の翌日に焼失し、つづいて同二十三年三月に同じ位置に建てられたのが、今回焼失の議事堂である。

 折りよく、城山仮庁舎から新県庁舎への移転が近いころであったため、六月移転後は、城山仮庁舎(参考館=商品陳列館)を議事堂向きに改修して、ここを臨時県会議事堂としてしのぐこととした。

 県庁舎の再建につづく議事堂の再建にも迫られた依田知事は、大正二年九月の臨時県会に、議事堂再建の費用五万四七四六円を、二年度と三年度の継続支出とする再建案を提出した。議員からは、議事堂の火災が明治二十年につぐ二回めの火災であることと、県庁舎の焼失を理由に、知事の再建案については、防火施設の必要と、ほかに幾つかの検討する課題が指摘された。そこで、それらの点については、さらに検討することで了承され、二年九月十三日の県会で、前の位置に再建することで可決された。

 同年十二月一日に起工し、翌三年十一月一日に竣工開堂式がおこなわれた。当日朗読された開堂式委員長広瀬直幹の「申請」書および、「建築見積書」等によれば、建築はルネサンス式木造、本館二階建て二二一坪、本館のうち平家建て二五坪四合、廊下平家五坪六合で、その他付属物をふくめて総坪数二八七坪であった。この議事堂は、第一議場が帝国議会式にできていたので、だれいうとなく「小国会議場」との評判がたった。


写真18 大正3年11月に竣工した県議会議事堂 (県議会事務局所蔵)