大正のはじめ県警察部は警務・保安・衛生・高等警察の四課からなり、大正五年(一九一六)工場課が新設されて五課となった。県内の警察区画は明治期の一郡一署主義を踏襲(とうしゅう)して一六警察署二六分署ではじまったが、二年十二月からの巡査部長派出所の新設で、三年三月には一六警察署一五分署となり、さらに警部補派出所(四年)も新設されるようになって、しだいに分署数を減らす方向にあった。
大正五年六月二十日、長野市に建碑された「長野県殉難警察官の碑」の除幕式・慰霊祭がおこなわれたが、このころ現長野市域の市町村は長野、塩崎、須坂の三警察署と屋代警察署松代分署の管轄下に置かれていた(表14)。塩崎警察署には中津警察分署があったが、大正三年三月に分署が廃止されて中津巡査部長派出所となり、これまでと同じ中津村をはじめとする東福寺、共和、笹井、今里、稲里、真島、小島田、青木島、西寺尾の一〇ヵ村を管轄した。六年三月二十日、県告示第八号によって塩崎警察署は篠ノ井警察署と名称を変えることになり、四月一日から篠ノ井町ほか四ヵ村の連合隔離病舎を仮庁舎とし警察事務を執ったが、翌七年四月二十九日には県費六五〇〇円で旧庁舎を篠ノ井町布施高田九六一に移転し改築した。当時の更級郡の中心が篠ノ井町にかわってきたことによる移転であった。長野警察署管内でも九年四月三十日の県令第四一号によって豊野巡査部長派出所が新設され、長沼・古里・柳原の三ヵ村が神郷村・鳥居村(上水内郡豊野町)とともにその管轄下に入った。
当時の警察行政は幅広く、伝染病や畜害予防対策の一環としておこなわれた野犬狩りもその一つであった。塩崎警察署では大正三年十一月一日に篠ノ井町で六頭、三日には同所で四二頭、さらに寺尾、共和、栄、西寺尾、御厨(みくりや)、青木島、中津などで二五頭を撲殺している。野犬狩りはその後もつづき、十四年十月からはじめた長野警察署の野犬狩りでは一ヵ月余で撲殺数二〇〇頭をこえたが、依然として無鑑札の犬が多い現状から引きつづき撲殺するとし、一日の撲殺数は五、六頭から多い日には一〇頭余を予定した。殺された犬は人夫の日当となった(『信毎』)。こうした野犬狩りのいっぽう、畜犬の健康診断も実施した。長野警察署の事例では大正四年二月二日から六日間の日程で、管内を三方面に分けて、それぞれに獣医、警部あるいは警部補、巡査部長を一チームとする職員を派遣している。第一方面へは武井獣医・小柳警部・梶原巡査部長が派遣され、二月二日芹田村、三日大豆島(まめじま)村、四日古牧村、五日朝陽村・柳原村、八日若槻村・古里村、九日三輪村・吉田町という日割りで、それぞれの役場において実施した。
衛生に関しては大正五年五月十二日に長野警察署に市内の商人七、八十人を集めて不良飲食品にたいする懇談・注意の会をもっている。長野市役所および上水内郡役所書記も出席し、藤根新太郎長野警察署長・県衛生課箕浦技手、農商課大久保県属から不良飲食品販売についての注意がおこなわれた。参会者の前にさらけだされた不良飲食品は数十種におよび、それらのなかには日露戦争当時のいわしやさけの缶詰のほか、品質がすでに変化してしまっているビールや日本酒の瓶詰、中身が腐った葡萄(ぶどう)やミルクの缶詰があり、さらに善光寺土産の杏(あんず)の羊羹(ようかん)や山葵(わさび)缶詰にも不正品・不良品があった。これは食品衛生上のみならず仏都長野市のイメージ上からもゆゆしき問題であり、きびしい警告とともに悪質な業者からは請書を提出させた。
大正七年八月十七日の長野市の米騒動で、十八日正午までに主犯とみられる青年たち四〇人余が検束されて長野警察署の留置場は満員となった。騒動への動きは十八日の夜もみえ、警察の警戒態勢はその後もつづき、夜警邏(けいら)する巡査たちの赤い提灯(ちょうちん)はこわいものの対象とさえなったといわれる。日ごろから庶民とは疎遠であったが、長野警察署は九年三月、署内に人事相談所を設置し、管内人民からのあらゆる相談にのった。場所は署長室、野溝健次郎署長自ら対応した。三月三十日の『信毎』には「長野署の大繁昌-人事相談で目が廻る-」「青菜に塩だが生々として引揚る」「控え室は何時も満員続き、受付は目をまわす有様、而もそれが同署管内ばかりでなく、遠く下伊那や南北佐久あたりからも出かけてくるものもあれば手紙で相談して来ると云う大繁昌」と報道している。十二月初旬までの相談総件数は六〇〇件で、市内元善町の教授院住職も協力応援した。人事相談の内容は、離婚、夫の放蕩(ほうとう)、兄弟の財産争いをはじめ、不良児・私生児の処置、家主からの立ちのき、境あらそい、親戚(しんせき)間の窃盗、祭典のごたごた、工女募集員の不親切、事業の失敗など時代を反映して多岐にわたった。
このころの治安状況をみると、長野市域を管轄した長野・塩崎・須坂の三警察署と松代警察分署の犯罪検挙人数は大正五年の場合、一二〇二人であった。検挙されたものは窃盗をトップに、賭博(とばく)・富くじ、詐欺・恐喝、横領によるものが多かった。賭博・富くじで検挙されたものは全県では窃盗、詐欺・恐喝についで三位であったが、長野市域の市町村が属した警察署管内では第二位にあり、この地域での特色をしめしている(表15)。事実、上水内郡の大正五年から九年の犯罪件数は、総件数一二三八件のうち、一番多いのは賭博で三〇五件、ついで窃盗一五六件、衆議院議員選挙違反一三二件、村会議員選挙違反一一九件、古物取締違反四二件、傷害罪三五件、詐欺罪三二件とつづいている。賭博と窃盗は各町村とも多かったが、犯罪件数の多いのは市街地周辺の町村であった(『信毎』)。長野市域周辺のある村では、七年一月二十一日から二十二日にかけて、二つの区で合わせて青年三二人が賭博で長野警察署に検挙された。とくに某地区の青年たちは本引組と称して、数ヵ月間にわたって毎夜のごとく「本引」と称する賭博をしていたという。また、長野警察署はこのころ管内を調査し、二六人を不良青年としてマークすることにしている。これは「女を追廻す悪癖」が要因とされていた。賭博も選挙違反も、楽しみの少ない地域や時代にあっては昔からの風習ともいえるもので、多くの人びとにとってはさほどの罪悪感はなかったようで、十一年三月二十六日、七年次と同じ村の某区ではまた青年たち三〇人余が賭博で検挙されている。十一年に入ってからのみで賭けた金は一〇〇〇円余に達し、なかには田畑・山林を売却したものもいると報じられている(『信毎』)。
捜査は見こみ捜査と自白に頼り、証拠がなくても犯人を逮捕したが、大正五年ころから証拠主義が台頭、また大正デモクラシーの風潮のなかで、刑事堪能な巡査の養成や指紋・写真の導入がはかられた。十四年五月の長野市南県町郵便局針金強盗事件が現場指紋から犯人を検挙した最初であった。いっぽう、凶悪犯罪の発生を背景に内務省は警察官のピストル携帯を認めるようになった。長野市域でも十一年末にピストルをもった男が青木島村で就寝中の夫婦を惨殺、翌十二年十月四日には長野市加茂神社裏の公営住宅で武井夫婦が凶刃で殺害される事件がおきていた。県当局は十三年の通常県会にピストル五〇挺の購入(二五〇〇円)を提案した。県会ではサーベルで威厳を保とうとする警察官にピストルをもたせることは、「狂人ニ刃物ヲ当テガウ」ようなものとの強い反対があったが、落合慶四郎警察部長は明治三十九年以来今日までに犯人逮捕にあたって五〇件もの負傷があったこと、携帯することによって犯人逮捕と警察官の身体保護に自信をもってあたれることを強調した。採決の結果、二二対二〇でピストルの携帯がきまった。
凶悪犯罪の発生は第一次世界大戦後の経済不況ともかかわっていたが、大正六年のロシア革命による社会主義政権の誕生は長野県の青年たちにも大きな影響をあたえた。とくに不況下のなかで社会主義思想が知識青年をとらえ、各地に社会主義研究をめざす会や小作組合がつくられた。当時は高等警察課が中心となって、その活動や内情をさぐり、治安警察法によって活動を停止させたり検挙したりした。大正十三年三月十七日、下伊那自由青年連盟の中心であるLYL(リベラル・ヤング・リーグ)の二三人を検挙した。かれらは「秘密結社並ニ新聞紙法違反」で起訴されたが、長野県ではこの事件をきっかけに、十三年十月二十五日に警察部に特別高等警察課(以下、特高課と略称)を設置した。特高課は前年までに八道府県にできていたのみで、長野県の設置は全国的には早い方であった。十四年四月に普通選挙法とともに治安維持法が公布されると、治安維持法にもとづく取り締まりをおこなった。国家存立の根本を破壊し、もしくは社会の安寧(あんねい)秩序を攪乱(かくらん)せしむるような各種社会運動を防止・鎮圧することを使命とした特高課には思想係(思想その他社会団体・社会運動・不敬事件)、労働係(無産政党・水平社運動・融和運動・農民運動)、新聞紙・出版物係、外事および朝鮮人係(翻訳・外国人・朝鮮人)、労働争議調停係(労働運動および争議・労働争議調停)をおき、特別要視察人を監視するとともに思想取り締まりを強めていった。