警察署廃止反対運動と警廃事件

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大正十五年(一九二六)六月三十日夕五時、長野県は警察署の統廃合を七月一日に実施すると発表した。七月一日の『信毎』は「本県警察署廃合 昨夕発表さる 岩村田屋代中野の三署は廃止 同時に所轄区域にも大変更す」の見出しで、警察署の廃止・昇格・新設の箇所とともに人事異動を大々的に報じた。この統廃合で三警察署が廃止となり、松代など一六分署も岡谷と小諸の二分署が警察署に昇格したほかは、全部廃止された。長野市域のかかわりでみると、屋代警察署と同署松代分署がそれぞれ警部補派出所となって篠ノ井警察署下に組みいれられて更級・埴科両郡一円が篠ノ井警察署、上高井郡一円と下高井郡の一部が須坂警察署、長野市と上水内郡の一円が長野警察署の管轄下におかれた。地方官官制の改正で、警察分署制度が廃止、郡制廃止で召集徴発事務が警察署へ移管という事情のほか、警察費の軽減という課題もあり、これまでの一郡一署制度が交通・通信機関の発達、警察力の統制と弾力性、警察事務の統一と能率化、県財政の実情との適合性などの観点から抜本的に見直しされた結果であった。

 突然に発表された警察署の廃合整理は、県民に事務手続き上の余分な費用や時間の負担を強いるものであり、さらに、所在地町村の盛衰にもかかわる問題だけに全県下に波紋をおこした。とくに岩村田・屋代・中野の三町は、その地方の中心地として栄えてきただけに、郡役所が廃止されたうえ、警察署もなくなるということで危機感をいっきに高めた。三町の反応はすばやく、さっそく町会や町村長会、さらには町民大会、郡民大会を開いて絶対反対に立ちあがり、県などへの復活陳情をおこなった。

 こうしたなか、三町は七月七日の内務省への請願を機に、足並みをそろえて国・県にたいして全県的規模で廃止反対運動を展開することにした。三町の町長と関係郡選出の四人の県会議員が発起人となった関係町村対策協議会は十二日に長野市県町のやぶ料理店で開かれた。この会には三町のほか、分署が廃止されたところの町村長や県会議員、町村会議員ら五〇人余が参集した。対策協議会では名称を「長野県警察署復活期成同盟会」とし、梅谷知事のとった警察本署の廃止分合は暴断であり、県民を蔑視(べっし)するもので、その責を糾弾して反省を促し、速やかに復活を期するとの決議をおこなった。


写真20 大正15年の警察署廃止反対の大会に集まる人びと (『仏都百年のあゆみ』より)

 松代町もこの動きに刺激され、十三日に急きょ、町会議員協議会を開いて、立つことを決め、矢沢頼道町長はじめ町会議員ら一八人が実行委員となり、直ちに運動に着手することになった。十六日の期成同盟会実行委員会では、県会議員全員協議会が開かれる七月十八日、長野市の長野劇場で反対県民集会を開くことのほか、県民大会の準備委員、関係町村への大動員のはたらきかけなどを決めた。この席上、上田市は直接関係ないにもかかわらず同情的であるのにたいして、長野市ははなはだ冷淡で、かえって知事の英断として賞賛するような態度であり反省を促すべきだと移庁論に結びつけての意見が続出した。長野市では十五日に正副議長と参事会員が協議し、廃署関係町村に同情をあらわす意味から知事に意見を呈することをきめ、翌十六日午前に鈴木議長ら五人が知事に面会し、今回の警察署整理にあたり廃止をこうむった関係地方は誠に気の毒であるから何分同情ある解決を願いたい、と申しいれたが、知事の決意をかえることはできず、また、遅きに失した動きでもあったようである。

 七月十八日午前八時過ぎ、岩村田町民の第一陣四〇〇人が長野駅に下車した。いずれも赤襷(たすき)をかけ、「暴政梅谷知事を葬れ」「岩警の復活を期す」など大書した旗を押したて、中央通りを行進した。城山公園では差しいれの酒四斗樽をあけ、「天も許さぬ梅谷の此(この)暴政を何と見る」云々(うんぬん)の応援歌を高唱した。午前一〇時三〇分ごろ、白襷の屋代町民約四〇〇人と赤襷の岩村田町民第二陣三〇〇人が長野駅に下車した。出むかえた岩村田・屋代・中野の連合宣伝自動車三台の車上からは「暴政の知事を葬れ」「警察廃止を痛快と言える県会議員松橋久左衛門は我が敵なり」「松橋方の便所を借りよ」と絶叫した。松橋久左衛門がやり玉にあげられたのは、七月二日の『信毎』紙上の「各方面の廃合整理評」に「大賛成 痛快にやった 松橋県議談」として「郡役所廃止に伴ふ地方官制の変革を機会に時を移さず断行した当局の御手際は実に鮮かなものだ。此点吾々県議としても大賛成である」との論評が掲載されたことにあった。屋代、岩村田とつづくこの団体は四列に整列し、隊伍を整えて末広町から県町通りを北上した。県庁東門に通ずる寿町通りの交差点に達したとき、「左折して県庁に立ちよるべし」との声がかかると、警官・団体指導者の制止を振りきって、いっきに県庁に向かって駆けだした。

 県庁東門を突破した群衆は阻止する警官に暴行し巡査教習所へ投石、さらに「我は警察復活のため身命を賭すべし、梅谷知事を糾弾せよ」との演説によって、口々に「知事官舎に行け」とさけびながら東門をでて、県町にある知事官舎へ殺到した。正門を守る十数人の警官を突破して門内に入り、「知事を出せ」「面会せよ」とさわいだ。第二陣を迎えようと城山公園を下った岩村田第一陣も知事官舎にて合流し加勢した。梅谷知事が出てくると、知事を取りかこんで殴る蹴るの暴行を加えた。知事官舎を襲った群衆は警察部長官舎へも殺到し、部長への面会を強要するいっぽう、室内へ乱入して手当たりしだい打ちこわした。部長官舎の騒ぎは正午すぎおさまったが、犀北館前で県会議員小山邦太郎(小諸町在住)をみると、かれを追って同館へ数百人が殺到した。小山は岩村田町民から小諸分署の昇格、岩村田警察署の廃止を画策した人物と反感をもたれていたのである。小山を発見できなかった群衆はそこで二手に分かれたが、信濃毎日新聞社の掲示板に「暴徒知事官舎を襲いたる」との張り紙に、「良民を暴徒とは何事か」と激昂(げきこう)して同社へ乱入、また向かい側の長野新聞社の掲示板にも「屋代町民、知事官舎に押しよせ、知事を殴打」との張り紙に、屋代町民のみが暴行したように掲示するのは不都合であると押しよせて支配人に謝罪させた。


写真21 県庁東門と寿町通り
(『北信濃の100年』より)

 中野町を中心とした人びとは、午前八時ごろから正午にかけて権堂駅に到着した。集合場所は秋葉神社であった。一一時ごろ、連合の宣伝車がき、車上から「暴政の賊梅谷光貞を葬れ、警察部長を葬れ」「暴政に与(くみ)する県会議員松橋久左衛門を葬れ」「長野市には共同便所が少ないから松橋方の便所を借りよ、同家の便所はきれいだ」と、檄を飛ばした。群衆のなかにはすでに城山公園にいって四斗樽一本をあけてきたグループもあり、興奮した二〇〇人余は秋葉神社をでて、信濃毎日新聞社、長野新聞社、さらに知事官舎、警察部長官舎付近を練りあるき、下高井郡歌を高唱して示威運動をおこなった。なかには知事官舎に侵入して気勢をあげたものもいた。汽車にて正午ごろ、長野駅に着いた中野町青年団松川支部の五〇人余は葬式用の天蓋(てんがい)を先頭に中央道路を北上し善光寺に参詣したのち、秋葉神社へ参集した。この往復の途中で西後町の鍋久こと松橋久左衛門方を襲撃し、投石・暴行したものもいた。午後一時ごろ、中野の群衆八〇〇人余は秋葉神社から中央道路にでた。ここで知事官舎など襲撃した屋代・岩村田の群衆と合流し、城山公園に向かった。途中、松橋の店前を通過するさいには「不徳漢松橋久左衛門を葬れ」と叫び、投石、なかには店内に侵入して商品を投げつけるなどの暴行をするものもいた。

 県民大会は午後一時過ぎから長野劇場で開かれた。座長には県会議員の山本荘一郎が選出され、梅谷知事の警察署の廃止分合は県民蔑視(べっし)の暴断であり、その責任を糾弾して反省を促し、速やかに復活を期す、との決議文を可決した。ついで実行委員に運動方法を一任することに決して演説会に入ったが、群衆が続々と集まってきたため、城山公園噴水北側芝生に第二会場を設営し、午後二時からそこでも演説会を開いた。次々に演壇に立つ弁士のなかには、「言論の時は去れり、実行に移れ、実行とは赤なり」と暴動を扇動(せんどう)するものもいた。散会のさい、「県会議事堂を包囲して県会議員の協議会に対して示威運動をなすべし」と叫ぶものがあり、午後三時ころ、群衆は大挙して県会議事堂に向かった。途中またまた松橋方を襲撃して徹底的に打ちこわした。その時間は一時間におよんだ。四時ころ、県会議事堂をとりかこんだ。出席の議員は半数(定数二一人)にも達せず、また群衆に囲まれた環境下で協議会を開くことは妥当でない、と翌日引きつづいて協議することに決し、群衆に説明したが、群衆は納得せず、はやく決議せよ、と騒ぎ、投石したり、天蓋を窓から差し入れて議員の頭上で振りまわしたりした。議員たちが、県民の意思を尊重し本問題を引きつづき研究し要望に沿うようにするので議員に一任するよう大書したものを二階窓下に張りだすと、群衆はかえって激昂(げきこう)して議事堂内に突入し、いす、その他の器物を破壊したり、協議会延期を主張した議員を追いまわしたりした。午後五時ころ、群衆は万歳を唱えて漸次議事堂を退散し、電車あるいは汽車で各所へ帰っていった。

 十九日の『信毎』紙上に「憤激に燃ゆる大衆 知事官舎を襲ふ 流し旗を押立てた数千名 各所で警官と小競合ひ」と大きく報じられ、この騒ぎは長野市中を無警察状態に化した。焼きうちされるなどの流言蜚語(りゅうげんひご)が飛びかい、市民を恐怖におとしいれた。長野警察署は管内の巡査を総動員したほか、上田、篠ノ井、須坂、小諸、飯山などから二〇〇人余の応援をえたが、市民のなかには、軍隊の応援がなければ終息しないといって騒ぐものもいた。暴動による器物の損害は二六四三円で、うち松橋方は一二〇〇円であった。十八日夜は警察官五〇〇人余をはじめ、松本憲兵隊、長野市の自警団・消防隊などが夜警にあたったが、幾多の流言蜚語で、市民は不安な一夜を過ごした。こうした事態を招いたことにたいして、福沢長野署長は、あんな騒ぎになろうとは実際思わなかった。最初県民大会の幹部連中が断じて騒動的なことはしないからとちかったので、それを信じ長野署だけで警戒をしていたのだが、あの騒ぎとなったので各署の応援をこうたわけである。今少し理知のあるものと信じていたのに、と残念がるとともに「全市の無警察はまったく申しわけなし」と語っている。

 警察当局はこの暴動にたいして騒擾(そうじょう)罪を適用してきびしく捜査・検挙する方針をかため、また、長野地方裁判所検事局も新聞報道を禁止し、七月二十日から一斉検挙に着手した。この結果、八月十六日までに県民大会参加者を中心に八六六人が検挙され、六三八人が検事局に送検された。

 いっぽう、県会は十九日、十数人の警察官に警戒されたなかで協議会を開き、①警察署の整理廃合を専行し未曾有の紛擾を招来したのは施政上の失態であり、当局の反省を求めること、②警察署の廃止で地方の自治機関を破壊もしくは破壊せんとするは県治上憂慮すべき現象であり、速やかにその回復維持に最善の方途を講ずること、③警察署の整理廃合に伴う欠陥は、これを救済すべき方途を講じ、関係町村はもちろん、一般民衆を安心させること、を決議した。各政党も事件をおもくみ、ぞくぞくと長野へ調査員を派遣、とくに野党の政友会は常設調査本部を設置して民心の動揺、司法・行政当局の処置を監視した。官憲の専断にたいする民衆の反感が事態を招来させたという気運が高まり、知事公選の叫びもでてくるなか、政府は政治混乱をさけるため、二十八日の定例閣議で、今回の騒擾は思想団体や政党の扇動(せんどう)者は皆無という内相の報告を了承し、八月五日、梅谷光貞知事と竹下豊次警察部長を依願免官とし、後任の知事に高橋守雄、警察部長に藤岡長和を任命した。

 着任した高橋知事らは八月十三日に警察署の人事異動を発表し、騒擾事件の処分をおこなった。福沢長野署長が退職、小諸・篠ノ井・須坂の各署長らは減俸処分となった。ついで警察の機構改革が昭和二年(一九二七)一月二十七日告示、二月一日実施でおこなわれた。これによって、三署が復活し、五署が増設され、県下は二三警察署、一一警部補派出所、二四巡査部長派出所の体制となった。長野市域では松代警部補派出所が警察署に昇格した。四月三十日には長野地方裁判所で騒擾事件の判決公判が開かれ、七〇人に最高八ヵ月から最低三ヵ月の懲役刑(六人に実刑、六四人に執行猶予)、六〇人に罰金刑、一三人に無罪の判決があり、騒擾事件に一応の終止符がうたれた。


写真22 警廃事件の全容をまとめた『長野暴動事件真相記』