裁判所・陪審制度と刑務所

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裁判所は、明治二十三年(一八九〇)二月の裁判所構成法で、区裁判所、地方裁判所、控訴院、大審院の四つとなり、この構成は昭和二十二年(一九四七)までかわらなかった。長野県には長野地方裁判所のほか、上田・松本・飯田に支部、長野・飯山・松本・上諏訪・大町・福島・飯田・伊那・上田・岩村田に区裁判所が置かれた。区裁判所では、民事が一〇〇円以下の請求訴訟、刑事が違警罪(拘留・科料にあたる罪)や懲役一年以内の軽微な事件を取りあつかったが、とりわけ民事訴訟では時代とともに、訴訟額が明治三十八年二〇〇円、大正二年(一九一三)五〇〇円、同十四年には一〇〇〇円までと権限が拡大されていった。

 長野地方裁判所と長野区裁判所は長野町(市制施行・明治三十年)の花咲町に設置された。長野区裁判所の下に登記事務を扱う出張所があり、当初は新町(上水内郡信州新町)・中津・須坂(須坂市)・松代に設けられた。長野市域の町村は新町出張所を除く、区裁判所の直轄か、あるいは中津、須坂、松代出張所のいずれかの管轄下に入った。この区裁判所出張所は経済発展のなかでしだいに地域住民にとってきわめて身近で重要な存在となっていき、その管轄や設置位置をめぐって問題がおこってきた。明治四十年三月、更級郡稲荷山(いなりやま)町(更埴市)は、更級郡一町二八ヵ村のなかで郡中に出張所があるのは中津だけで、そこへの所属村は一三ヵ村にすぎない。残りの町村は長野区裁判所直轄と、松代、新町、坂城(埴科郡坂城町)、屋代(更埴市、なお坂城・屋代出張所は上田区裁判所管轄)の出張所に分散所属しており、とくに他郡に、また異なる区裁判所に分属されていることは、交通上不便であるばかりか、権利・義務の執行上もきわめて不利である。ついては中津出張所所属の塩崎・信田・川柳の三ヵ村と上田区裁判所屋代出張所所属の稲荷山・八幡・桑原(以上更埴市)、更級(埴科郡戸倉町)の一町三ヵ村をもって稲荷山町に出張所を設置し、管轄を長野区裁判所へ変更してほしい、と司法大臣へ出願、また衆議院へ請願した。この結果、一町六ヵ村の訴えが認められ、四十一年六月二十四日に長野区裁判所稲荷山出張所が開庁した。この年の一月、長沼と鳥居・神郷(上水内郡豊野町)の三ヵ村も、北信商業銀行・鴻商銀行豊野支店・六三銀行豊野支店などを加えて出張所の新設を誓願した。誓願の趣旨は、近年いろいろな事業が発展し、会社・銀行なども増え、公人・私人の権利・財産を安全に保有するための登記事務が非常に多くなり、一日では登記の目的が達しえない状況があるので、長沼・神郷・鳥居の三ヵ村と若槻・古牧の二ヵ村を範囲とする出張所を神郷村豊野に設置してほしい、というものであった。稲荷山町同様に豊野も当時の経済上の拠点で、請願書は衆議院の採択となった。しかし、明治四十四年の資料(表16)によると、長野区裁判所下の出張所は、中津・松代・新町・須坂・稲荷山・牟礼(上水内郡牟礼村)の六つとなっており、豊野への出張所新設は実現しなかった。


写真23 長野地方裁判所
(『長野市史』より)


表16 長野地方・区裁判所職員録 (明治44年)

 裁判所には判事・司法官試補・書記・執達吏などの職員がいた(表16)。執達吏は区裁判所に属し、出張所には書記のみが配置されていた。また、裁判所には検事部もあって検事がいたほか、弁護士、公証人、破産管財人も所属し、裁判・登記事務を支えた。大正二年末の職員は、長野地方裁判所が五五人、長野区裁判所が五三人であった(表17)。この年、政府は国費節減を理由に区裁判所の廃止を打ちだした。区裁判所の廃止は地域住民に余計な金銭出費を強いるのみならず、時日の徒消、労力の空費となり、さらには戸籍・訴訟事務の渋滞などを招くなど、はかりしれない負担をあたえた。ある試算によれば、三〇万円の国費をうかせるために金銭上だけでも数百万の負担を国民におしつけるものであった。長野区裁判所は廃止にならなかったものの、飯山・岩村田・福島・大町の四つの区裁判所が廃止となった。このため大正二年末の長野県の裁判所職員数は前年にくらべて総数で三三人減となっている。判事七人、書記一〇人、雇三人、廷丁一二人、給仕一人という内訳であった。四つの区裁判所の廃止で、隣接地域の区裁判所の訴訟件数が急増した。長野区裁判所では明治四十四年一〇三六件(同年飯山区裁判所二二三件)であったものが、大正二年には一六三〇件となっている。存続した区裁判所にも大きな影響をあたえたのである。関係町村住民のねばり強い区裁判所復活運動もあって、大正十年にはいずれも復活した。十四年の長野区裁判所管轄下の出張所をみると、新たに柵(しがらみ)(上水内郡戸隠村)、柏原(同信濃町)、栄(同中条村)、小布施(上高井郡小布施町)の四出張所の名がみえ、総数一〇ヵ所を数えた。経済の発展、権利意識の高揚などが裁判所・出張所の存在をいっそう身近なものとした。しかし、訴訟は減る傾向にあることもまた確かな事実で、大正十四年の長野区裁判所の取りあつかい事件数は民事五一三〇件(前年比五八七件減)、刑事二五五件(同三七件減)であった。民事のうち、その三五パーセントにあたる一七九七件は貸し金取りたて訴訟で、この件では昨年より一五八件増となっているが、総体的取りあつかい数は減少している。この原因はいちがいにはいえないが、不況の影響のほか、訴訟は損という意識がでてきた反映ともみられる。


表17 長野地方・区裁判所職種別人員 (大正2年末)

 日本弁護士協会員で長野地方裁判所に所属した弁護士は大正元年五六人、同十五年もほとんどかわりのない五五人であった。このうち長野市在住の弁護士は元年一八人、十五年一九人を数え、長野県の弁護士の三二から三五パーセントをしめていた。いずれも花咲町、桜枝町といった裁判所近くに住み、その多くが電話をもって活動していたことがしられる(表18)。小木曽庄吉、矢島浦太郎、矢嶋録四郎、小島相陽、宮下一清の五人は明治二十六年の長野弁護士会設立当初からの弁護士で、また、中澤鷹根、村松藤太、船坂恒久の三人は警廃事件の人権蹂躙(じゅうりん)問題で日本弁護士会が調査したさい、取り調べ委員として活躍した。なお、村松藤太は明治十二年六月に豊栄村小渕に生まれ、三十四年に早稲田大学行政科を卒業、翌年弁護士となり、鳩山和夫事務所で法律事務を扱い、四十一年に長野市横沢町に法律事務所を開所した(『とよさか誌』)。


表18 長野市域関係の弁護士名

 いっぽう、長野県監獄署は明治三十六年に司法省の所管となり、長野監獄と改称された。明治四十一年三月には監獄法が公布され、監獄の種類(懲役監・禁錮監・拘留場・拘置監)や獄則(自由束縛の限度・方法などに関する事項など)が体系的に定められ、大正十一年十月一日からは監獄が刑務所となり、長野監獄も長野刑務所となった。


写真24 白い高土壁と監視塔が目を引く明治末ごろの長野刑務所

 長野監獄の在監囚人は、大正四年一月初旬、七五四人であった。受刑者には、徒刑思想から従来は苦役が課せられ、過酷な待遇を強いたが、監獄内外での作業をはじめ、獄舎の施設・環境衛生などの改善によって、受刑者の生活もしだいに変化していった。在監人の作業は明治三十二年八月の県訓令で冬の最短七時間から夏の最長一〇時間三〇分に改正された。三十四年二月の長野県典獄から内務部長への報告では、在監人の健康保護、飲食物の改良、飲料水の検査、衣服・寝具の清潔、防寒、監房工場の空気試験など監獄衛生に注意した結果、前年に比べて入病監患者(前年度患者一〇八人)が四八人、死亡者(同死亡者三一人)が一六人減ったとしている。大正四年一月七日、『信毎』は「闇に迎えた新年 長野監獄の現況」を掲載しているが、それによると、大晦日には全員を入浴させ、正月三が日間は作業もなく、暮れに仲間がついた雑煮を食し、副食には魚も煮しめもあって、屠蘇(とそ)がないのが世間並みでないが、未決囚は受刑囚とは異なり差し入れ物で元旦を祝した、と報じている。

 長野監獄の移転問題が大正五年十月十九日の長野市議会ではじめて論議された。建議議員は塚田嘉太郎で、塚田は、現在地(大字袖長野第四番地)は市の将来発展に支障をきたすので他の適当な場所に移転すべきであり、意見書を司法大臣に提出したいというものであった。花岡・北村両市議もそれに賛成した。これにたいして牧野市長は移転改築するには市が移転費として約二五万円以上を負担する必要があるばかりか、市内には移転させる適当な場所もないし、司法大臣も容易には認可しないので多分不可能であろうと答弁した。塚田市議は甲府の事例から現在地の敷地を売却すれば、移転料は一〇万円内外で足りると主張したが、建議に不備があるということでこの建議は撤回され、次回書面にて提出することになった。しかし、これ以来、長野監獄の移転が都市計画とのからみから市議会で論議されるようになった。市当局もこの問題を真摯(しんし)にうけとめ、九年に司法大臣に陳情書を提出した。さらに十一年二月八日には小坂順造衆議院議員を紹介者にし長野市長三田幸司ほか一人の名前で提出した請願書が衆議院請願第四分科会で採択され、十日に衆議院議長に報告された。教育機関や官公署に接近しており風教上悪影響が大きく、また市の発展を阻止すること甚大である、というのが請願書の趣旨であった。

 衆議院で長野監獄(大正十一年十月一日より長野刑務所)移転の請願が採択されたものの、経費・敷地問題が依然として大きな課題であった。敷地については古牧など二、三の土地が候補にあがっていたが、交通の便、官舎と都市との距離、水利、水質や土質(耕作地)の良否などからの調査が必要で、このほか十五年段階には敷地二万坪の地元寄付と工費五、六十万円の寄付がないと実現の可能性はないとされた。とくに長野刑務所の場合、新築より四五年ほど経過していたが、気候の関係からか建造物の腐朽がそれほどでなく、設備も比較的に新しく、全国的にみれば改築を急ぐ必要はないとみられていただけに寄付金額の多さが移転・改築の可能性を左右するふしがあった。司法省でも刑務所の改築は毎年予算化したものの、緊縮財政で削除されており、昭和三年(一九二八)度の予算編成ではできるだけ地代安価な場所を求め、現在地を売却し、その金をもって長野刑務所も一一〇万円ほどで新築しようとの決意をもったが、結果的には戦前においてはその実現をみることはできなかった。

 ところで、国民の権利意識と人道的な考えが高揚してくるなかで、国民の良識を裁判に反映させようと、大正十二年(一九二三)四月、陪審法が制定された(施行は昭和三年十月)。この法によって専門の裁判官のほかに素人の国民(陪審員)が加わって裁判をおこなう道が開かれたのである。すなわち、地方裁判所で裁判する刑事事件のうち、①殺人・放火などで死刑や無期懲役・禁固などに処せられる事件、②窃盗・詐欺などで三年以上の懲役・禁固に処せられる事件の公判に陪審員一二人を立ちあわせ、法廷の審理・弁論を聴かせたのち、裁判官が出す問題について、陪審員一同から答えを出させ、それにもとづいて裁判官が裁判するというものであった。なお、刑事事件のうち、前者は被告人からの陪審裁判の請求は不要であったが、後者は被告人から請求があってはじめて陪審にかけられた。

 陪審員には、日本臣民の三〇歳以上の男子で、同一市町村に二年以上居住し、二年以上直接国税三円以上納め、読み書きができる、の四条件をそなえたもののなかから選ばれた。具体的には市町村長が四条件をそなえたものの名簿(陪審員資格者名簿)を作成し、その名簿のなかから地方裁判所長が定めた人数の陪審員候補者をくじできめ(陪審員候補者名簿)、公判の日が決定すると、裁判長は市町村の大小に応じて一人または数人の陪審員を抽選し、陪審員三六人を公判日に呼びだし、さらに忌避(きひ)手つづき(検事と被告が気に入らぬものを排斥)で裁判に立ちあう一二人の陪審員をきめたのである。なお、陪審員になれる条件をそなえていても、禁治産者・医師・教員・学生・市町村長などは陪審員になれなかった。

 陪審法施行準備として大正十五年四月五日、学校長・市町村会議員・学務委員・方面委員・青年団長・在郷軍人会長・教育会長・住職・神主・キリスト教聖職者・商工会議所会頭・農会長・医師会長などの名簿作成を指示した。豊栄村では四月九日に長野区裁判所監督書記あてに回報しているが、九月二十九日、長野地方裁判所検事正と裁判所長名で名簿の各種団体長あてに陪審法説明書(「甲陪審制度の話」、「乙陪審裁判とはどんなもの?」)を配布するよう依頼してきた。まず市町村の各代表者に陪審法を理解させようとしたのである。ついで昭和二年一月十日、長野地方裁判所検事正と所長名で二月一日現在で陪審員資格名簿を作成し、三月二十五日までに提出するように通達した。名簿の内容は、上から記すと、資格の有無、現住の最初の居住年月、直接国税納入額(三ヵ年)、読書をなし得るや、陪審法第十三条の人格事由、現住所、職業、氏名、生年月日であった。調査の結果、豊栄村の有資格者は六五人であった。六月十四、十五日には市町村長と名簿調製主任を蔵春閣に集めて陪審員名簿調製に関する協議会を開催している。名簿作成後、くじがおこなわれたが、これには陪審法施行規則所定の抽選器が必要であった。長野地方裁判所では巣鴨刑務所製作の抽選器を奨励している。抽選器は、小村にあっては二、三ヵ村で一台でもよいとされた。値段は二〇〇〇個用のもの一〇円、六〇〇〇個用のもの一三円、番号玉は二〇〇〇個までは一個一銭、二〇〇〇個以上一個七厘であった。最初の陪審員には長野県で九一人がなり、長野市域では七人が就任している(表19)。なお、陪審員資格名簿は毎年九月に作成され、昭和六年の長野市域の市町村別資格者数と候補者数は表20のようであった(昭和十六年からは戦争でいそがしく四年ごとの作成となる)。


表19 長野市域出身の陪審員 (昭和3年)


表20 長野市域の陪審員資格者および候補者数 (昭和6年9月)

 陪審制度の啓蒙(けいもう)、陪審員名簿の準備をすすめるいっぽう、長野地方裁判所内に陪審法廷をつくった。建築工事は守屋組が請けおい、昭和二年四月に着工し、十一月二十五日に竣工した。法廷二室をふくむ二階建て本館と付属の陪審員宿舎で総工費七万五〇〇〇円であった。法廷は横五間、縦六間で、机などドイツ式を取りいれて丸みをもたせ、床はリノリウム張りで、壁紙には花模様のものを使用した。長野地方裁判所初の陪審裁判は昭和四年四月八日からはじまった強姦致傷に関する裁判であった(有罪)。陪審裁判は国民の司法参加という点で画期的な制度ではあったが、皇室にたいする罪をはじめ、内乱・騒擾(そうじょう)・選挙などの罪には陪審裁判は認められなかった。さらに昭和四年からは治安維持法違反も除外されたため、期待されたほどの効果はなく、被告も陪審裁判を嫌う傾向があり、長野地方裁判所でおこなわれた陪審裁判も昭和八年までのあいだに、同五年の放火および未遂事件の裁判二件をいれて計三件を数えるのみであった。陪審制度は昭和十八年三月まで約一五年間存続したが、このあいだの陪審裁判は全国で五〇〇件を下まわった。