長野市は明治三十年(一八九七)市制を実施するが、その二七年後の大正十二年(一九二三)に近隣の三輪村・芹田村・吉田町(大正三年四月一日町制施行)・古牧村の一町三ヵ村を編入合併して市域を広めた。この時期は、郡制の過重な負担が町村財政の逼迫(ひっぱく)となり、さらに産業や交通機関の発達から、都市への人口集中が進行していた。そのため地方の中小都市でも都市計画等により周辺町村の合併機運が高まっていた時期である。このようななかで長野市のこの編入合併も、ここにいたるまでにかなり早い時点から動きがみられる。
明治三十八年五月十一日関清英県知事は「三輪村大字三輪、芹田村大字中御所・栗田・鶴賀は長野市に編入合併することが得策である」として、一市二ヵ村に六月二十六日までに合併可否の答申をするよう諮問を発した。これにたいし長野市会は五月二十二日満場一致で合併を適当とすることを議決し、その旨答申した。芹田村は六月十九日、三輪村は六月二十二日村会を開設し審議の結果、両村とも絶対反対の議決となりその旨答申した。そして十月上水内郡でも参事会議長が三輪・芹田両村長とともに県に合併反対の陳情をした。このため「時いまだ到らず」として立ち消えとなった。
大正四年一月九日、今度は長野市が県に三輪・芹田の両村を合併したいという意見書を提出した。理由は「逐年人口増加による市の膨張にともない、道路、下水溝、水道の布設、庁舎の移転、停車場の拡張など両村に関係を生じるため」としている。なお、この意見書ではとくにうたっていないがこの時期の市会等の内容によれば、市ではこの合併を御大典記念事業としても企(くわだ)てていた。
この動きにたいし、三輪・芹田両村とも直ちに賛否の審議をはじめ最初はいろいろな意見が出された。たとえば三輪村では、大体長野市への合併に賛成であるが、「村の半分を吉田町に合併し半分を長野市に合併」の説もでた。これは分合説とよばれた。また芹田村では、長野市への一部の合併は異議があるが、村全体の合併なら異議がないなどであった。しかし、その後両村とも四月中旬までには、分合も一部合併も絶対反対の旨を表明するにおよび、長野市もこのさい無理をせず時節を待つこととして、両村の合併は中止となった。
大正十年一月一日松橋久左衛門市会議長が年頭にあたり、十年度の事業として市区改正を第一にあげたなかで「芹田・三輪両村合併の目口をあけたい」と表明したり、同年九月一日には上田市の城下村合併などにしげきされて、市政調査会を中心に近隣町村の合併問題がおこった。これに加えて七月一日には内務省から都市計画施行のための下調査が長野・松本・上田の三市ではじまった。越えて十一年一月には吉田・三輪・芹田の有力者間で「今年中に合併を」の声があがったが、吉田町が乗り気、芹田村は気がすすまない状態であった。しかし、同年三月初旬岡田県知事は都市計画上合併が必要として「三輪・芹田両村が自動的に併合の意見を決することを望む」として内務省に内申した。これをうけて内務省は「吉田・三輪・芹田の合併」を計画し、関係市町村に七月二十日までに答申するよう諮問を発した。これにたいし六月中旬までの各町村の動きは、長野市が「合併を熱望」、芹田村が「合併は無理」、吉田町が「道路、電車、水道等が条件」、三輪村が「吉田町まで合併なら異議はない」というものであった。六月下旬知事は関係町村長と懇談し「合併後は都市計画法を実施して水道、教育、道路、住宅等の利益享受」を説くなどしたが、上水内郡も合併後の郡の勢力激変を心配して賛成はしなかった。
これまでの動きのなかでは、古牧村の合併は俎上(そじょう)になかったが、十一年六月下旬都市計画調査で長野にきていた内務省山田博愛博士が「古牧を加えることが都市計画の上から有利」と発言、岡田知事も「古牧が自主的発動により希望するなら合併もありうる」としたことから、合併問題は古牧村まで広げての新たな段階に入った。
長野市は七月中旬から交渉委員をあげて、古牧村をふくめた関係町村への合併に力を入れることになった。古牧へは当事者に交渉を開始し、吉田へは電車と道路を、三輪へは道路を、芹田へは中御所分教場の設備改善と校舎拡張を、というように主な条件を示してあたった。
これにたいし、七月十八日三輪村村民大会ではいったん合併反対の「決議書」と「陳情書」を採択したが、その直後に上松区の青年等が合併促進の「決議案」を可決するなどの動きがあり、八月三日村会協議会では全会一致で「合併」を可決した。七月三十日古牧村正式村会では賛成を決議したが、同時に「意見書」と「合同条件」を採択、合同条件には交通・財政・教育・農事・行政・市会議員の配置・財産等がふくまれていた。七月三十一日吉田町町会でも「合併賛成」を決議したが市と交換の「覚書」を作成し、「電車敷設は十一年七月中に起工し十二年七月中までに完成、もし今年十月中に起工なき場合は、私設会社を設立してその完成を期すること」というきびしいものであった。八月八日芹田村村会協議会では、六ヵ条の「合同条件」を付して「賛成」を決議した。こうしてほぼ一町三ヵ村の賛成が得られたところで、八月九日長野市は県へ合併同意の答申をした。あとは県参事会の決議と内務省への稟申(りんしん)をまつばかりとなり、各市町村では関係委員が内祝いをしたり、合併実施期を明十二年四月一日の方針とするなど、大長野市建設の合併問題は全部解決したかにみえた。
ところが、内務省は先の山田博士の意見に反して古牧村の合併にあくまで反対した。理由は「古牧村は純農村で尚早」とし、「近い将来も覚束なし」というにあった。そこで九月一日からは関係市町村の合同委員十数人が内務省へ陳情をしたりしたが、この解決は容易でなかった。しかし、県や長野市としては都市計画への見通しからも古牧を除きたくはなかった。そこで岡田県知事と丸山市長は古牧村の積極的誠意にたいし「古牧をみごろしにはできない」「古牧は純農村ではない」としたり、また「合併の可否にかかわらず相当の施設をする」などと表明して、ねばり強く内務省との交渉にあたった。その努力が実って十月初旬に内務省は「古牧村民の合併異議なき書類を提出するよう」命じてきた。同月六日古牧村長は村民押印の書類を携帯して上京し提出した。その後もなお古牧の問題は一進一退で合併実施予定の十二年四月一日までには認可とならず約三ヵ月の遅れをみることになった。
この間、吉田町も大正十一年十一月に、電車布設について「資本金二五〇万円の会社を設立し、これに市の一割補助が求められているが、いまだその負担が決まらない、十月一日起工の期限も過ぎている」と促進を警告したり、十二年二月初旬には「電車布設まで合併中止」を県に申しでたり、さらに同年五月下旬には、古牧の合併も見通しがつき、長野市のすべての合併問題について、まさに内務省へ認可手続きをとろうとしている矢先、吉田町委員が上京し同じく「電車布設まで合併中止」を、上京中の知事に面会して陳情した。そして場合によっては内務省にも出頭する勢いを示した。ここで県は大困惑をおこしたり、憤怒したが、それよりも内務省の非認可をおそれ、五月二十九日いそいでいっさいの書類をまとめて本省に送り認可の手続きをとり、「吉田町の件は誤解のないよう」と稟申におよんだ。この一件は地元選出の小坂順造代議士の尽力もあって事なきをえた。困難をきわめた合併問題も、十二年六月十六日付けで内務大臣の認可決済となり、同日本間県知事は関係市町村へ可否の諮問を発した。これにたいする各市町村の答申は『信毎』の報道によれば、十七日 長野市会満場一致で可決、同三輪村会満場一致で可決、同吉田町会意見多数でまとまらず後日に継続、同芹田村会可決、同古牧村会可決、十九日 吉田町会可決のようである。
吉田町は最後まで意志統一に手間どったが、翌二十日倉沢町長、町会議員等が小坂代議士同道で県と長野市へあいさつまわりをしている。
こうして市制施行いらい最初の近隣町村編入合併問題は、長野市の都市計画や関係町村の合併条件等との絡みがあって難航し、予定より三ヵ月の遅れをみたが、十二年六月二十七日付け長野県告示第三四二号並びに長野県達第五五一号により「町村制第三条及ビ市制第四条ニ依リ、大正十二年七月一日ヨリ上水内郡芹田村、古牧村、三輪村、及吉田町ヲ廃シ、其ノ区域全部ヲ長野市ニ編入シ長野市ノ境界ヲ変更シ、併セテ右各町村有財産(一切ノ権利義務)ハ之ヲ長野市ニ帰属セシム」と最終認可となった。
そして同日はとくに吉田町との協約にかかわる「長野電車創立総会」を城山の蔵春閣で開催し「資本金二〇〇万円、須坂まで一気に敷設」を決議した。また七月一日より合併と同時に元町村民の利便をはかるため、町村役場をそのまま市役所出張所とし、期限内の納税や簡易な願い届け等の受付け処理をすることとして新長野市のスタートをした。実施日の翌二日には、新市域をふくめた市内小学生による旗行列があり、夜は市民による提灯(ちょうちん)行列が盛大におこなわれた。
なお、この編入合併当時の各市町村の戸数・人口等は表21のようであるが、これによれば戸数では五一パーセント余、人口では五七パーセント余の増加となり、いずれも一・五倍以上の都市に拡大した。