周辺町村の合併問題

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大正十二年(一九二三)七月、長野市が近隣一町三ヵ村の編入合併をしたころ、周辺の現長野市域の町村も財政の逼迫(ひっぱく)におちいり、同じく近隣町村との合併で行財政の整理をする動きが各地にみられた。

 大正十年一月、稲里村・青木島村・真島村・小島田村の四ヵ村は、更級郡下ではもっとも早く合併の動きをみせた。そして合併実現のためには「まず小学校から」として、各村の高等科を廃止し、四ヵ村の中心地一ヵ所に設置することを計画した。この動きがその後どのようにすすめられたか不明であるが、四年後の十四年一月十七日四ヵ村は合併のための第三回協議会を大塚学校内に開いた。この会議では合併の第一歩として「学校組合をつくる」として、大方異議はなかったが、学校位置について、稲里村が自村の下氷鉋を主張し他の三ヵ村が反対したり、経費の負担割合等で折りあいがつかず、この案はながれた。

 そして、このとき合併が実現しなかった更級郡下の中津村・御厨村・東福寺村・西寺尾村・桑原村・稲荷山町など各町村の合併は、いずれも第二次世界大戦後の昭和二十五年から三十年まで待つこととなった。

 大正十三年七月一日、更級郡笹井村(明治二十三年五月十七日上氷鉋(かみひがの)村を改称)と今里村が合併して川中島村となった。この合併は同年六月二十九日に認可となったが、その認可当日まで両村農会の合併問題がからみ、一時は農会の解散まで叫ぶものもあらわれた。そのため石原郡長は両村の村会議員を協議員として、新たにつくられる川中島農会長には旧笹井村農会長の西山保吉を、副会長には旧今里村農会長の川島和三郎を推すこととしてようやく円満な解決をみた。合併後の新役場は一時両村組合立日新尋常高等小学校(大正二年移転新築現川中島小の前身)構内におき、村長事務は新村長が決まるまでのあいだ、郡の職務管掌として清水精三郎郡書記が出張(官選村長に相当)し、笹井村の丸田平作と二人であたることにした。そして大字は上氷鉋・四ッ屋・今里の三区とし「笹井」の名称はこのときからなくなった。同年十月十七日今里の川島和三郎が実質初代村長に当選した。

 このころ更級郡下では、このほかつぎのような町村合併の動きがみられた(『信毎』)。

① 中津村・御厨(みくりや)村の二ヵ村合併案

② 篠ノ井町・栄村の二ヵ町村合併案と川柳村を加えての三ヵ町村合併案

③ 稲里村・青木島村・真島村・小島田(おしまだ)村の四ヵ村合併案

④ 東福寺村・西寺尾村の二ヵ村合併案

⑤ 桑原村の稲荷山(いなりやま)町への合併希望

 これらの合併の動きにたいして、郡ではいずれも十四年十月ころまでに実現するよう努力したが、思うようにはいかなかった。

 大正十三年五月三十日、更級郡中津村(今井・原)と御厨村の両村が合併のため第一回委員会を開催し、つづいて同年六月九日第二回委員会を郡役所で開催した。この会議では合併賛成意見が多く具体案をつくり合併促進をはかることとなったが、結論を得るには時間を要した。


図5 町村合併関係町村略地図

 大正十三年六月、更級郡篠ノ井町(大正三年四月一日町制施行)と栄村(御幣川(おんべがわ))の合併問題がおこった。しかし、これには当時の組合立通明尋常高等小学校校地の一部が川柳村(二ッ柳・石川)にかかっていることから、川柳村もふくめての合併意見もでたがまとまらずこの案は消え、原案で進めることになった。十月十二日栄村の横田地区は道路の改修を条件に合併賛成を決めた。そして翌十四年七月二十九日栄村が村会議員協議会を、篠ノ井町が三十一日町会議員協議会を開き、いずれも両村の合併に異議がなく、翌八月初旬には合同協議会により具体案を協議することとなった。その後数回にわたり委員間の折衝をもち、両村ともにある程度合併が有利であることに傾いたが、各町村の利害や打算が一部有力者の反対で決定にはいたらなかった。

 これらの動きのなかで大正十四年十二月には、「篠ノ井町・栄村の合併」と「中津村・御厨村の合併」を一つにして「四ヵ町村合併による一大町村」をつくってはという意見が濃厚となり、この案を骨子として翌年一月二十日ころ第一回の協議会を開くこととなった。この一大町村案のもとは「すでにこの四ヵ町村が実業補習教育や病院など幾多の事務組合をつくっており、内容においては併合的な経済状態にあり、さらに合併を具体化すれば、面積〇・七一方里(約九平方キロメートル)、戸数二〇六六戸、人口一万一一五六人で、郡内第一位の町村となる」(『信毎』)というものであった。しかし、この合併による最大の難問題は、新庁舎の位置と新議員数にあった。議員数はこれまで各町村一二人ずつ計四八人にたいし、仮に合併すれば条例により二四人が減り半分の議員数になる。また庁舎位置の決定も四ヵ町村の調整をとるのはきわめて困難であった。これらの問題をかかえながらも一般の町村民は、この四ヵ町村の実現を望んでいたが、結局この案も実現することなく終わった。大正十五年三月・四月ころ、再び篠ノ井町・栄村・川柳村三ヵ町村合併案がでたが、川柳村の反対でながれた。

 その後は篠ノ井町・栄村の両村で協議を進め、昭和三年(一九二八)二月十二日の協議会で合併することを可決し、同三月二十二日県参事会で議決、さらに同月二十七日内務省の認可指令があり、同年四月一日付け新篠ノ井町が実現した。これにより「栄」の名称はこのときからなくなった。新町長には同年五月十七日瀧澤豊馬が当選した。

 大正十四年十一月には、上高井郡綿内村と川田村の合併問題があった。綿内村の石田治作村長は将来川田村を合併して大綿内をつくり町制をしく理想をいだいたが、実現を急ぐ前にまず綿内に劇場と芸妓置屋を設ける計画をたて有力者の援助をもとめた。そして数回にわたり県当局に許可申請をした。しかし劇場の認可はおりたが、両村の合併も町制もこの時点では実現しなかった。

 前項で記した長野市の近隣一町三ヵ村編入合併の際、安茂里村と大豆島(まめじま)村は除外されていたが、当時この両村は合併とは別に、「長野市都市計画区域への編入」が俎上(そじょう)に上がっていた。このことは、「長野市の都市計画」でも記してあるが、大正十五年三月、内務省よりの「長野市都市計画区域編入」への諮問にたいして、両村は答申するため村会審議をおこなった。その結果、大豆島村は最初から賛成を決議したが、安茂里村は「この際区々たる都市計画区域編入問題よりは、挙村一致をもってむしろ積極的に長野市へ合併することを熱望」(『信毎』)して、同月十四日大井村長をはじめ村会議員一同が長野市役所へ丸山市長を訪問しその旨を伝えた。市は直ちに翌十五日市会協議会を開き懇談したが、議論百出してまとまりをみなかった。ただし丸山市長は「安茂里は十四年度国勢調査の結果、人口四七二五人、世帯数九二九、資力十六万六千余円、生産額は杏をはじめとして実に三七万四八五七円で郡内きっての大村である」として合併賛意を表明したが、けっきょく市会の賛成は得られなかった。これをみて安茂里村は同月十七日村会で審議し、満場一致をもって都市計画区域編入を可決した。そのため、この両村の長野市への合併は先おくりとなった。