明治二十三年(一八九〇)五月「郡制」が公布され翌年四月からスタートした。郡には郡会や郡参事会が置かれ、それぞれの郡の実情に応じて事業を推進してきた。しかし、郡には課税権がなく財源のほとんどを町村への分賦金に頼るなど、自治体としての権限には制約が多く、郡政は大きく発展できない矛盾を初めからかかえていた。そのため早くから郡制廃止の動きがみられた。
明治三十八年には早くも衆議院議員の手で郡制廃止案が提出され、その後も数回にわたって内閣や議員の提出で審議され、いずれも衆議院では多数の支持を得たが、貴族院で否決または審議未了で不成立となっていた。その後大正十年(一九二一)三月原敬内閣により、郡制廃止案は両院を通過し、十二年四月一日をもって郡制は廃止されることとなり、以後郡は単なる地方の行政官庁として郡役所と郡長が残された。しかし、十五年にはさらに貴族院の反対をおしきって、郡役所と郡長も廃止され、郡は単に地理的名称にかわった。
この郡制廃止にいたる背景には、大正初年から高まりをみせた地主層への反発や普選運動への意識の高揚などがあげられるが、もっとも差し迫った問題は、地方の各町村が第一次世界大戦後の経済不況と諸事業の増加で年々の予算が増大の一途をたどり、町村財政が逼迫(ひっぱく)したことにあった。このことはまた、郡費歳入の大部分を町村への分賦金に頼る郡財政にも大きな影響をあたえた。
この各町村の分賦金支出額の増加状況を埴科郡のうち現長野市域の六ヵ町村について、大正二年から同十一年までのあいだほぼ隔年に示したのが、表22である。これによれば各町村とも、大正六年までは、あまり増加していないが、その後増加率が多くなり同十一年にはいずれも一〇倍前後の増加となっている。
この郡制廃止の善後策として大きな問題となったのは、各郡の郡立学校と郡道の処理であった。学校はおもに中学校・高等女学校のほか農学校などの実業学校であったが、いずれも県立移管を希望し、この時期関係四郡では、上高井(須坂)中学校、更級(篠ノ井)高等女学校、須坂高等女学校、上水内農学校が県立移管となった。郡道については、道路法の改正をまって、その標準にあうものは県へ移管し、他は町村道にするとして、およそ七七パーセントが県道に格上げされた。
長野市にとっては、このとき郡制廃止は直接的な関係はなかったが、各郡からの学校や道路の県立移管によって、「県の歳出が増加すれば、その負担は当然市にもおよぶ」として、長野・松本・上田の三市は協同して学校や道路の県立移管を働きかけることにし、郡制廃止以前の大正十年七月ころから郡市長会議とは別に、三市長による協議会をもち、その結果を知事へ要望していた。そのおもな内容は、①長野、松本両市立中等学校を県立に、②重要市道は県道に、主要市道は準県道に、③県費の市負担が過重にならないように(『信毎』)というものであった。この動きのなかで長野商業学校は十一年四月県立に移管となったが、そのさい、同校の不動産・動産・敷地拡張費等合わせて十九万三千余円相当を県に寄付した。このように学校の県立移管は、県からのきびしい条件がついて、郡にとっては移管のための必要経費も過大な負担となっていた。
大正十五年七月一日から郡役所は廃止となったが、現長野市域関係四郡では、これまで郡役所に事務所を置いていた各種団体は私設をふくめて各所とも十数団体があった。県はこのような状況から各郡の庁舎はなるべくそのままのこすことにした。
同年八月四日県は、庶甲発第二号で内務部長から県下の各市町村長あてに「元郡庁舎の称呼ノ件」と題して、「今後は何々郡連合事務所」と称することに決定したと通知した。ただし、上水内郡役所は主として県庁事務室に充当するので、この建物は「長野県庁分室とする」とした。
こうして、これまでの郡役所庁舎は県の出先機関や郡的諸団等の連合事務所に供することになった。しかし、私設団体の多くは予算や補助金の関係上、自然消滅か解散のほかなく、およそ三割の団体が整理された。
郡制・郡役所は廃止されても、各町村の財政の困難度がすぐに解決されるというものではなかった。これまでの郡長・郡役所の行政事務の一部が、今度は各町村長や吏員の事務として負うことになった。そのため、埴科郡町村長会では十五年二月の会議で、各町村の町村長・助役・収入役等の給与を平均二~三割増額して事務の能率を上げる(『信毎』)ことを申しあわせている。
また、逼迫(ひっぱく)した町村の財政を解決する一つの手段として、この時期に浮上したのが、町村合併論である。周辺町村の合併の項で記した、長野市の一町三ヵ村の合併や周辺町村の合併の動きもこれとのかかわりが大きい。