大正三年(一九一四)七月末、オーストリアがセルビアに戦線布告して第一次世界大戦がはじまった。欧州各国をまきこんだ戦乱は日本とは直接関係なかったものの、繭価の暴落、米価の低落などがみられ、農家にその影響があらわれつつあった。イギリスと同盟関係にあった日本はイギリスの要請を盾に東洋の平和を維持する主旨をもって八月二十三日にドイツに宣戦布告した。翌朝の『信毎』は「帝国は遂に剣を把って起てり 大快報忽ち西方より来らん」と大々的に報じた。
日本が参戦すると、長野市内の書店などでは世界地図をおもてに持ちだし、にわかづくりの欧州戦局図や青島明細図を店頭にならべた。西沢書店はヨーロッパの交戦国と膠州湾の地図を拡大して店頭にはり、そこに新聞報道による毎日の戦線の変化を書きこみ、市民の人気をよんだ。陸軍の山東省上陸、海軍の膠州湾封鎖をえがいた石版画が売られ、とくに一組七、八銭から十五、六銭した最新兵器の飛行機や飛行船の写真絵はがきがよく売れた。日本軍は、海軍が十月十四日に赤道以北のドイツ領南洋諸島を、陸軍が十一月七日に青島を占領した。
青島陥落が伝わると、長野市ではそれを祝して七日夕方から夜にかけて提灯(ちょうちん)行列をおこなった。信濃毎日新聞社が主催したこの行列には区、商業団体、学校、長野鉄道工場、銀行など七十余団体が参加し総員一万三〇〇〇人といわれた。本社前に集合した人びとは、七日午後六時過ぎ、一発の号砲を合図に同社楽隊を先頭に出発した。師範学校前にでた行列はそこから旭町・仲町・六三銀行前をへて南に折れて問御所町・新田町・末広町にいたり、さらに北に方向を転じて千歳町をすぎ裏権堂から東後町・大門町・元善町をへて善光寺忠霊殿で参拝し、東公園から城山運動場に入った。爆竹を合図に信濃毎日新聞社代表湯本易水があいさつし、つづいて天皇陛下万歳を三唱、師範学校長の音頭で主催者信濃毎日新聞社の万歳をして一応散会となった。行列が城山運動場に入ったとき、長野上方料芸会有志の寄付による立煙火があり、式が終わったときには仕掛け煙火などがおこなわれた。当夜、各区・団体は挙(こぞ)って変装、また新趣向をこらして行列に参加した。青島を陥落させた軍司令官は諏訪郡平野村(岡谷市)出身の神尾光臣中将、旅団長は松代出身の堀内文治郎少将であったことから、愛国婦人会長野支部では十日に神尾中将・堀内少将などに、また同支部埴科郡幹事部でも幹事一同の名をもって堀内少将に祝賀電報を発している。
大正三年の戦役(第一次世界大戦)では特別な動員や徴発はなかったが、長野県からは五九二人が出征した。長野市域が関係する郡市の出征数は、更級郡五五人、埴科郡三七人、上高井郡二五人、上水内郡七九人、長野市七人で、古牧村では二人いた。戦死者は塩崎、共和、西寺尾、御厨(みくりや)、稲里、青木島などででた。大正四年三月七日に善光寺大本願において前戦役戦死者の追悼(ついとう)大法会があり、三月十九日から二十五日までは善光寺保存会主催の追弔(ついちょう)大法会がおこなわれた。第一次世界大戦は大正七年十一月にドイツが降伏しようやく終了し、翌年の六月二十八日にベルサイユ講和条約が調印された。これをうけて長野市では六月三十日に官民合同で世界平和祝賀大提灯行列を挙行し、四年四ヵ月ぶりの平和を祝した。
いっぽう、第一次世界大戦中の大正六年十一月七日、ロシア革命がおこり、ソビエト政府が成立した。日英米仏などの列強は社会主義革命への干渉のため、大正七年七月に総兵力二万四八〇〇人、うち日本軍一万二〇〇〇人をシベリアへ送ることを協定した。これによって日本は八月に協定の全兵力をウラジオストックに送り、さらに増兵して三ヵ月後には七万三〇〇〇人の日本軍が東部シベリアの全要地を占領した。日本軍の増兵には満州・モンゴル制圧強化のねらいもあった。
長野県関係の人びとが多く属していた第十三師団も出征することになり、大正八年十一月二十二日、第十三師団長は歩兵第二十六旅団に属する歩兵帰休兵と同看護卒に二十六日から二十八日までに元隊に復するよう命令を発した。これによって約一六〇〇人の帰休兵が高田・松本連隊に召集され、松本歩兵五十連隊、高田歩兵五十八連隊、高田騎兵十七連隊、高田野砲兵十九連隊、高田工兵十三連隊などが出兵することになった。これらの連隊は大正九年一月二十五日から二月一日までに敦賀に集結、順次大陸に向け出発していった。人員は将校一二七人、下士二六六三人、馬匹三〇三頭(騎兵を除く)であった。高田連隊区からの出兵者のなかには長野県出身者が八四一人いた。長野市・上水内・上高井郡の出身者は表23のようであるが、そのうち古牧村出身者が一七人いた。豊栄村にも出兵者がおり、昭和五十七年(一九八二)段階で一〇人が生存していたといわれる(一部は大正四年出兵)。
兵歴がわかるものの一人、豊栄村の大塚貞太(明治三十二年十一月生)は現役兵として大正八年十二月一日に野砲兵第十九連隊(高田)に入隊し、九年四月二十六日にウラジオストックに上陸して同地の守備につき、十年五月十八日に敦賀に帰着した。また、大正七年十二月一日に歩兵第五十連隊に入隊した同村の半田直徳(明治三十年十二月生)は大正九年一月二十九日に敦賀を出港してウラジオストックに上陸したのち、ニコライエフスク、シコトウオ、蘇城、スパスコーエなどで守備あるいは戦闘し、十年四月二十九日に内地に帰還した。このほか大塚と同じ日に現役兵として第五十連隊に入隊した青山喜美夫(明治三十二年二月生)も、第五中隊に属してシコトウオ、蘇城、スパスコーエ、ダウヒヘなどを転戦している。内地帰還は十年四月二十七日であった。
シベリア出兵の長野県戦傷病死者は七一人を数えた。塩崎村・共和村・青木島村・朝陽村で各一人の戦死者があり、古牧村でも二人が戦死した。小田切村では大正九年四月十八日のクウーカ駅戦闘で歩兵上等兵斉藤松栄が戦死した。その村葬儀は兵役優待会主催で十一月十七日に同村国見沖でおこなわれたが、そのさい赤星典太長野県知事に会葬案内を出している。大正十一年三月十日、塩崎村では在郷軍人会と尚武会が共催で大正三年から九年戦役までに出兵した人びとの歓迎会を小学校で開き、第一次世界大戦とシベリア出兵にひとまず区切りをつけた。豊栄村の大塚と青山は十一月一日にシベリア出兵の功により勲八等を賜っている。