農業技術員養成の農事講習所

104 ~ 106

県下の米の自給率は低く、とくに北信地方では、下水内郡以外は移入によって必要な消費量をまかなう状況であった。そのため知事は、農村構造の安定化をはかるため、明治四十三年(一九一〇)には産米について、同四十五年には農事改良について、長野県農会に諮問した。大正二年(一九一三)に出された答申では、①稲の品種改良、②自給肥料の活用、③小作米と市場米の改良などが取りあげられている。農事改良では、①養蚕重視から普通農業との調整、②共同組織の普及、③桑園の整理と改植、④農業用家畜の飼育、⑤穀物耕作地の拡大、⑥副業の奨励などが取りあげられた。この答申の実施のため、推進役としての技術員を各町村農会に置くことを提言し、あわせて、明治三十年六月に上水内郡芹田村字若里大道西に開設されていた長野県農事試験場に、この年から農事講習部を設置し、農業技術員の養成を始めている。大正三年に第一回講習生四人の卒業生を送りだし、以後同六年の第四回の講習生までつづいている。

 これ以前は、各郡にあった農事試験場や分場で、篤農家の子弟、村長や試験場の人から推薦されたものが、講習生・研究生となって研修していた。教育方法は実習による実技修得が主であった。講習生のうち家が近いものは通い、遠方からのものは試験場内で共同炊事をして生活していた。

 県は農事改良を強力にすすめるため、大正四年からは専任の農業技術員の給与の県費補助を大幅に引きあげて、町村農会の技術力を高め、農業の近代化をはかろうとした。

 大正六年には、二年に設置された農事講習部を廃止し、練習生規程により町村農業技術員の養成をするようになった。それとともに、この年から専任担当技手が置かれ、実習を主にした訓練を始めている。この年は三五人の受験者から選抜された二〇人が入所を認められたが、三ヵ月間の試験訓練期間やその後の訓練のなかで、退所するものもでた。そのため翌年三月、練習生規程による第一回卒業生は一五人に減っていた。練習生は自分たちで自主的に全寮制を決めていたが、これは全国の農業講習所のなかでも珍しい試みであった。

 こうして農業技術員の養成をはかってきたが、八年五月時点における農業技術員の数は、県下で農会に五七人、町村に一九人であり、三百数十あった大部分の農会では、技術員を置くにはいたっていなかった。このような農業技術員不足にともなう農業技術員養成の緊急性から、大正七年の通常県会において農事講習所の設立が議決され、県は翌八年四月長野県立農事講習所を、上水内郡芹田村に開設した。それにともない、農事試験場練習生は、農村の中堅となるものの養成を目ざすものとなった。農事講習所の職員は所長・技師・技手・講師・書記・舎監であった。同年四月二十二日県庁において開所式をおこなったが、建物や設備が整わず、差し当たり農事試験場を借りうけて翌日から授業を開始した。


写真31 農事講習部が設置された県立農事試験場

 この講習所は、規程第一条で「農業技術員又ハ実業補習学校教員タラムトスル者ニ対シ農事ニ必要ナル講習ヲ為スヲ以テ目的トス」と定められていたので、農業技術員養成科の一部と実業補習学校教員講習科の二部に分かれていた。一部生の入所資格は、農業技術員の専門性を高めるために、①甲種農学校の卒業または同等以上の学力があるもので、②身体健全品行方正であるものとされていた。修業年限一年のあいだに、農業技術員養成科の講習生は、倫理、農業法規・農業経済・地方自治などの法制経済、土壌・肥料・普通作物・特用作物・作物品種改良などの作物、病虫害、果樹・蔬菜(そさい)などの園芸、養蚕、畜産、林業および農業実習を受講した。講習生には一ヵ月一〇円の学資が給付され、修了後二ヵ年は県内の市町村または市町村農会の農業技術員として、勤務する義務を負っていた。

 講習生はまた、指定の宿舎に寄宿することが義務づけられていたので、初年度の一部生一五人は、県農事試験場内の寄宿舎で一年間生活することになった。大正九年三月二十日には第一回修了式がおこなわれ、一五人が農業技術員として巣立ち、以後毎年修了生が県下各地で農業技術や農業近代化の指導にあたるようになっていった。九年には長野県農事試験場の移転改築が議決され、芹田村大字中御所および若里に耕地面積八町六反五畝九歩を買収した。敷地の東北隅に農事講習所寄宿舎一棟、食堂・炊事場・風呂場の一棟と物置一棟が建築された。

 大正十五年には、同八年以来併設されていた実業補習学校教員養成所は、吉田広町の上水内農学校内に移転した。農事講習所は修業年限が二年に延長され、定員も二〇人から五〇人に増加し、農業技術員養成の専門機関としていっそうの役割をになうようになっていった。