養蚕経営の改善

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長野県の養蚕業は明治以来、常に全国の先進県として王座を保ってきた。大正十二年(一九二三)の『日本帝国統計年鑑』によると長野県の桑園面積は全国の一〇パーセント余、繭産額は約一二パーセント、生糸生産額は約二六パーセント、蚕種製造額は約一七パーセントを占めてなお年々増加の傾向にあった。

 長野市域の養蚕業の実態は表26のようである。桑園面積は各郡市ともにふえて、明治四十年(一九〇七)から大正十二年にいたる一七年間に上高井の約一・八倍を最高に、他郡市も一・五倍近い増加を示している。また収繭量は明治四十年から大正八年にいたる一三年間に約一・九倍を記録した更級郡を筆頭に、他郡市も一・三倍以上の産額であった。桑園反当収繭量も全体的に漸増し、更級郡の場合、一三年間に一・三倍強に達している。


表26 桑園面積・収繭量・桑園反当収繭量

 長野市域における養蚕業の発展の地域的な事例の一つとして明治四十三年十月に埴科郡豊栄村が郡役所へ提出した「豊栄村養蚕業沿革」によれば、桑園面積は明治三十年代に入って飛躍的に増加し、同四十三年には同十年に比べて約三・五倍、繭産額は二・六倍となっている。また、蚕糸業の発達によって綿の栽培は皆無となり、馬の飼育数は半減し稲作その他の農作物等にたいする耕作が手薄となりそこからの現金収入がなくなったという。養蚕業の発達は村民の生活、風俗等にも大きく影響し、家屋の建築も養蚕の必要上広大し、現金収入の増大の結果、衣食住は全般的に向上した。生活費の高騰は非常なもので、中産者の場合で二〇年前には一ヵ年の支出がおよそ一五〇円ぐらいだったのに明治四十三年には五〇〇円以上になっている。とくに支出のなかで多いのは公費・雇人料・肥料代等である。生計費の向上の結果、養蚕の作柄の良不良が個人経済の浮沈に大きな影響をあたえていた。

 明治後半以後は、養蚕業が国際経済の動きにまきこまれてその景気変動による繭値の動揺は養蚕農家に不安をあたえた。しかし、養蚕業は他の換金作物にくらべて相対的に収益性が高かったため、長野県下の約八〇パーセントの農家はその経済を養蚕に依存し養蚕農家の専業化が急速にすすんだが、長野市域も例外ではなかった。第一次世界大戦が始まった大正三年には、生糸相場は大暴落し、明治三十三年以来の安値をよんだ。しかし、戦後の好景気に支えられ大正八年には繭価は未曾有(みぞう)の高値となった。

 この時代の長野市域の養蚕業発展の裏付けとなった技術の改善は、栽桑の面では桑品種の改良と選択がおこなわれたことである。明治四十年ころから葉が広くて厚い魯桑(ろそう)実生苗による桑園の改植、速成桑園の設置がすすめられ、大正七年からは桑の指定品種が県によって決められた。

 また、蚕品種の整理統一が進展し、蚕種の取りあつかいにたいする基礎的研究が急速にすすんで、欧州蚕種の輸入と結合して、大正六、七年ころには「一代雑種」の普及がさかんになった。一代雑種は蚕の虫質が強く繭の品質が優良なことで知られ、これと同種の蚕種が三〇種近く生みだされた。

 いっぽう、県では養蚕業の普及、改良、振興のために養蚕組合設置の奨励、荒廃桑園改植の奨励、蚕改良と統一、飼育を中心とした養蚕技術の向上をはかった。そのために蚕業試験場の設立(大正十一年長野市大字中御所字岡田一四に設立)、補助金の交付などの諸施策をすすめた。

 長野市域の養蚕経営の改善の実態を部門別(桑園と給桑・飼育法等)にみるとつぎのようであった。まず桑園の仕立法は全域にわたって栽桑に便利な根刈方式に改良されていった。大正末期から昭和初期にかけてその普及率は九七パーセントをこえた(昭和十年『長野県蚕糸業一覧表』)。また、桑の栽培上大きな役割を果たしたのが金肥の使用であった。

 飼育法では、大正時代まで稚蚕飼育については硬化病予防のために極端な乾燥育がおこなわれてきた。そのため給桑は一日に数回から十数回も実施していた。大正末期以降になると、一、二齢は多湿にたいして抵抗性があることが知られ、給与桑の萎凋(いちょう)を防ぐことを骨子とする飼育法が多く考案された。長野県では「覆蓋(ふくがい)法」(給桑箇所に覆いをする方法)が考案されたが、根本的な稚蚕飼育法の確立は昭和六年(一九三一)山梨県の山浦氏考案による「防乾飼育法」の普及をまたねばならなかった。蚕の飼育法の改善はいかに効率よく良質な繭を生産するかを目標にすすめられた。

 当時、長野市域での蚕の飼育法としては飼育温度によって分類する天然育・高温育・折衷育等があり、室内温度を華氏七〇度前後に調節し、寒暖・乾湿の適宜により飼育する折衷育が簡易と安全の面から奨励され普及していた。

 大正九年当時給桑形式のうえで一般的だったのは、三齢または四齢までは摘葉(つみは)や剉桑(ざそう)(切りきざんだ桑)をあたえ、以後は葉・全芽を給与する剉桑育であったが、更級郡では三齢、四齢まで全芽剉桑をあたえその後は全芽をあたえる剉芽育がもっともさかんであった。

 給桑形式のうえで注目すべきことは、表27のように四齢または五齢の壮蚕期に条桑(葉をつけた枝のままの桑)をあたえる条桑育の普及率が高まり、長野市は五二パーセント、上高井が三六パーセント(県平均五・四パーセント)に達していたことである。これは当時、条桑育は生産性(省力化)のもっとも高いといわれた飼育法であったからである。条桑育はその後めざましく普及し、大正十五年の養蚕戸数にたいする普及率は、更級郡が九四パーセント、埴科郡が八八パーセント、上高井郡が八〇パーセント、上水内郡が九九パーセント(県平均六一パーセント)に達していた。


表27 飼育法別戸数調査