林業と水産業

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長野県は明治三十四年(一九〇一)に公有山林取締規則をさだめて管理の強化をはかった。これにより、大正期に入って豊栄村ほか九ヵ村二組入会山の財産管理にたいして改善を督励した。

 同入会山は財産目録で原野三五五ヘクタール、畑五七ヘクタール、宅地六六七平方メートル(大正六年十二月)におよび、九ヵ村長の管理責任にゆだねられていた。従来から町村制による公法上の組合を設けていないだけでなく、公私を混交した私立の組合を設け、この管理者として地元豊栄村長を任じ町村制上の財産監督を受けることなく、土地の貸借産物の処分、開墾禁止制限地の無断開墾等すべて専断執行してきた。県がこの事実を知って以来、数次にわたり、町村制による公法上の町村組合を組織するよう指示したが、関係各村総代がこの組織に関する案を検討した結果、賛否まちまちで事態は進展しなかった。

 当時の経営内容は、大正三年(一九一四)度の共有入会山歳入出予算表によれば、歳入五九五円、うち小作料五〇七円(八五・二パーセント)、歳出は事務所費(給料・雑給ふくむ)一二三円、財産費(植樹・苗圃費など)一四九円、諸税負担八五円などが主なものであった。

 松代町公会堂において、大正六年十二月、財産組合の関係村長が会合した。組合規約草案のうち、各村より選出する組合会議員の定数については意見が区々にわたり、小島田村および寺尾村は村の事情を訴え、哀願的に一人の増員を要求した。豊栄村、東条村は権利歩合からみれば大いに増員の必要があるが、議員数の多いことは経費増加をきたすので、増員の要求を控えているのに、小島田(定員一人)、寺尾(同二人)両村のように権利歩合の少ない村がなお増員を希望するなら、豊栄、東条両村もまた増員を要求するとのべ、各村とも同じ主張を数回繰りかえした。

 小島田、寺尾両村がとくに増員を主張する真意は、村当局として部落を統御する実力がないこと、いまだ同村における部落有財産管理が定着していないことに起因していた。また、このさい、すすんで部落有財産統一の必要を篤(とく)と説明する必要もあった。しかし、出席者の郡書記、第六林区駐在員、県林業技手が説得にあたったところ、二ヵ村はようやく原案に同意し、議員数が決定した。こうして関係各村は公法組合を組織することになった。

 同入会山の共有林野調査書によれば、既往の経営により林野の約半分は造林地で、杉、からまつ、赤松等が植栽され、早く植栽されたものはすでに間伐を必要とするほどの林相を呈していた。造林残余の地はすべて薪草の採取地とされ、その面積は全林野のなお過半をしめる原野をなしていた。

 この組合の入会山より収益するしかたには二種類があった。里方に属する村々は自然の必要上、おもに春秋二季に薪を採取することを唯一の目的としていた。いっぽう、豊栄村その他近村の山部に位置する村々は夏季において緑肥にまぐさ、青草、干し草を採取することを唯一の目的とした。

 林野中に開墾の畑地があるが、これは明治三十年代までの大開墾によって、合計五七ヘクタールにおよび、いずれも地元村民に貸しだされていた。これによって組合の収益をはかるとともに、耕地を拡張してその収益で造林計画をたてて植林し、原野の整理をおこなった。このことは直接的には組合財産を有利有益に使用して、その増殖を目的としていたが、また間接的には森林思想の普及、水資源涵養(かんよう)の達成、洪水被害除去を期するものでもあった。

 大正十一年十月、豊栄村における山林の一部(二七ヘクタール弱)が土砂流出防止のため保安林に編入する旨の告示が出された。そのか所は千曲川流域に属し傾斜二五度ないし四五度をしめし、土壌の結合がきわめて脆弱(ぜいじゃく)で、ところどころ崩壊、土砂が流出し、ますます荒廃のおそれがあったので、国土保安上、保安林に編入する必要があったからである。ところがこれにたいして知事(長野地方森林会長)あての意見書をもって異論が出された。

 住民生活に密着した入会(山)問題はしばしば利害の相反する住民のあいだで引きおこされた。上水内郡富士里村(信濃町)、高岡村(牟礼村)地籍の国有林野霊仙寺(れいせんじ)山三千有余ヘクタールは昔から入会山であり、明治四十五年度まで、草、わらび・たけのこなどを採取してきた。しかし、大正二年度になって、長野小林区署長から、これら副産物は許可を得なければ採取できない旨の命令があった。そこで二年三月、入会山総代高岡村丸山高治の招集により、富士里村・高岡村・浅川村各総代が協議のうえ、採取許可願いを長野小林区署へ提出した。それによれば、草八〇〇束、篠五〇〇束、たけのこ八〇〇貫目が目だっている。

 ところが、富士里村竹内伊三郎ほか四人から採取異議申立の陳情書が長野小林区署へ提出され、なお引きつづき竹内伊三郎ほか五十有余人の竹細工同業者が払いさげ反対の故障書を提出した。長野小林区署長によれば、この故障書が取りさげられなければ採取許可はできないと指示したため、丸山らは竹内らに故障書取りけしの申しこみをしたが、らちが明かず、副産物払いさげを実現することができなかった。五月になって、すでにたけのこは採取販売の時期にあたっていたので、困りはてた丸山らは中郷分署長(警部、牟礼村)あてに、故障書取りさげのための説得工作を願いでている。

 新潟県方面より千曲川を遡上(そじょう)するさけの九割は千曲川・犀川合流地点から、湧水が豊富で産卵に適した砂礫(されき)河床の多い安曇野方面をめざして犀川(さいがわ)に入った。千曲川沿岸の柳原、青木島、東福寺、川田、綿内の各村漁民はそのさけ・ます漁獲のために、漁場の位置、漁業の方法、漁獲物の種類、漁業時期、免許期間を絵図面を添付して県知事あてに申請した。

 申請書によれば、そのときの定置漁法は川幅二五間に六尺ずつの間隔に長さ八尺の杭を打ち、この杭に横木を緊縛し布木(ませき)とする。その布木に長さ四尺の丸竹製すのこを張って簗(やな)とする。簗の一部に九尺四方の竹すのこで囲んだ陥穿(かんせい)を設け、陥穿へ魚類が潜入すると出ることができないため、捕獲される、というものであった。川止めによるさけの漁法は犀川沿いの更級郡真島村川合、千曲川沿岸では上高井郡川田村牛島などで実施されていた。そして大漁がつづくと七~一〇日で採算がとれたといわれる。しかしいっぽうで、いったん許可を受けた漁場も、洪水による河床(流水域)の移動、川底低下、まれには申請者の病気によって休業や変更を余儀なくされた。更級郡真島村川合小林鹿之助は大正十年十月からの定置漁業(真島橋上流一〇間の場所)を休業願いを出して許可されている。願いによれば、同年は千曲川工事用石材運搬のため船の往来ひんぱんで簗は設けたが、とうてい漁獲の見こみがないため休業した。これとは別に、上流の漁民が夜警のすきをぬってすのこを壊しにやって来ることがあり、しばしば被害を受けた。


図6 真島村川合関崎地籍でのさけの川止め漁場図 (「公文編冊 漁業図綴込」県行政文書より)

 川止めのすぐ下流では、簗に阻まれたさけが回遊するので、四方を竹で張りひろげた四ッ手網を用いて漁をした。これは河床に沈められた大きな網を岸の支柱と滑車をつかって引きあげる漁法である。


写真36 千曲川での四ッ手網漁 (小林昇所蔵)

 しかし、大正十四年にもなると、下流の信濃川から遡上してくる魚はいちじるしく減少し、沿岸の漁業者中には失業したものもいた。その原因は新潟県の信濃川大河津分水工事が完成してその堰堤が魚の関所となったことによる。新潟県ではすでにこのことに気づき、内務省では善後策として分水のか所に新たに魚道を開設することになった。大正十二年七月に千曲川水系(大豆島~小布施)の漁業組合が結成されたばかりで、当時の漁業補償交渉においてはダム建設にともなう魚道設置を義務づけなかったようである。